2000
2001

2回目の世界タイトル

シューマッハとレッドが再びNO.1

2回目の世界タイトル
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F2001
2002
2回目の世界タイトル
20012回目の世界タイトル
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各種の瞬間ガレージ
1947
1947初勝利
1948166 MMのデビュー
1949ル・マン勝利
1950
1950赤のミッレミリア
1950F1デビュー
1951F1初勝利
1952マルゾットのモナコ優勝
1952アスカリの勝利
1953スポーツカー選手権
1954最後のパンアメリカン
1954パリのクイーン
1955クーペのレディ
1956チャンピオンファンジオ
1957CALIFORNIA DREAMING
1957最後のミッレミリア
1958優美なチャンピオン
1959米国に挑む
1960
1960シリーズ開始
1961赤の独占
1962マスターピース
1963ル・マン、イタリア
19642つの世界のヒーロー
1965タルガで勝利
1966至宝の365 P
1967伝説のゴール
1968勝利への賛辞
1968アルゼンチンタンゴ
1969タスマニアのディーノ
1969ヨーロッパのマスターズ
1969新しいパートナー
1970
1970512 Sの奇跡
1971365 GT4 BB
1972312 P全勝
1972ホームサーキット
1973DINO 308 GT4が到着
197450回目の熱狂
1975チャンピオンのラウダ
1975初回
1976見事なオートマチック
19772回目のニキ
1978故郷で才能開花
1979シェクター世界一
1980
19808気筒エンジンを搭載した4シーター
1981モナコでターボが優勝
1982無敵の308 GTB
1983オープエアの楽しみ
1984フェラーリ初
1984スタイルの傑作
1985328、最後の舞台
1986米国の脅威
1987エンツォの夢
1988別れの日
1989マンセルのギア
1990
1990F1GP 100 勝
1991アイコンの進化
1992クラシックGT
1993クライアント専用
1994究極の洗練
1995F1ロードカー
1996シューマッハ初
1997革命的なギアボックス
1998スピード・フォルム
1999頂点に復帰
2000
200021年後
20012回目の世界タイトル
2002創業者への敬意
2003追悼アニエッリ
2004制止不能
2005SUPERAMERICAの魔術
2006エクスクルーシブXXプログラム
2007キミ、逆転王者
2008再びチャンピオン
2009ベンチマーク・カー
2010
2010赤のファン
2011全天候型FF
2012性能とデザイン
2013究極の革新
2014究極
2015未来に向かって
201670周年の象徴
2016株式市場の上場
2017祝!70周年
2018セルジオとの別れ
2019異なるオーナーには異なるフェラーリを
2020
2020優れた回復力を発揮するブランド
2021大きな変化の年
2001シューマッハの圧倒的強さ

2回目の世界タイトル

シューマッハとレッドが再びNO.1

スクーデリア・フェラーリは、2001年のチャンピオン最有力候補としてシーズンをスタートさせました。前年に2冠を手にしたマラネッロのチームは、連覇を果たすべく、ドライバーとエンジニアが新たな決意を胸にスタートを切ったのです。その年のレギュレーションに大きな変更がなかったことから、フェラーリが再び優勝するだろうとみられていました。

2回目の世界タイトル

レースに投入されたF2001は、ダウンフォースを制限するためにフロントウィングのアセンブリを地上10 cm以上の位置に引き上げるなど、国際自動車連盟の新たなレギュレーションに対応したマシンでした。さらに、前年の優勝を勝ち取った2000年モデルとコンセプトを共有していたうえに、微調整によるさらなる軽量化によって、バラスト搭載の自由度も高めてありました。 シーズン最初のオーストラリア戦とマレーシア戦ではミハエル・シューマッハが勝利を挙げましたが、続くブラジル戦ではマクラーレンのデビッド・クルサードがレースを制しています。安定感のある走りをかつてない強さへと変化させていったクルサードは、同シーズンにおけるシューマッハの唯一のライバルでした。イモラで開催されたレースでミハエルはリタイアを余儀なくされましたが、その後のスペイン戦とニュルブルクリンクにおけるヨーロッパ戦では彼が再び勝利を勝ち取っています。この年、彼はウィリアムズに所属する弟のラルフと対決することが多くありました。ラルフもF1でトップドライバーの仲間入りを果たした1人です。さらに、ラルフのチームメイトでコロンビア出身のファン・パブロ・モントーヤも、シーズン中には何度かミハエルとの白熱した勝負を見せています。タイトルの行方を左右するフランス戦では、ミハエル・シューマッハが決定的なリードを築いて勝利を獲得する一方、クルサードは3位に終わってしまいました。この時点でシューマッハはクルサードに対し、3勝分の勝ち点にあたる31ポイントもの差を付けていました。コンストラクターズ部門はポイントにさらなる開きがあり、タイトル獲得に期待が持てる状況でした。優勝こそ無かったものの、何度も表彰台に上がったバリチェロのお陰もあり、フェラーリはマクラーレンの56ポイントに対して108ポイントを獲得していたのです。8月19日、休日を楽しむ人々がテレビの前に集まってF1の戦いを見守りました。その日のハンガリー戦で2つの部門のチャンピオンが決定すると見られていたのです。シューマッハは、1993年にアラン・プロストが残した最速ラップの記録を破って予選を制します。彼はクルサードに0.801秒、バリチェロに0.894秒の差を付けてポールポジションを獲得したのです。他のドライバーはトップから1秒以上の遅れで予選を終えました。決勝は全77周のうち71周をシューマッハがトップで走るという展開で、チームメイトとマクラーレンのライバルに首位を譲ったのはピットストップの時だけでした。彼の後ろでは熾烈な2位争いが繰り広げられていましたが、結局は最後に前に出たバリチェロが2位でフィニッシュ。この結果、圧倒的なポイント差により、フェラーリがドライバーズとコンストラクターズの両タイトルを獲得することとなったのです。

こうしてシューマッハはフェラーリで2度目の、自身としてはプロストと同じ4度目のワールドチャンピオンに輝きました。さらに、シューマッハはグランプリの優勝回数においてもプロストの通算51勝に並んだのです。その後すぐさまシューマッハは、1950年代の伝説的ドライバーであるファン・マヌエル・ファンジオが持つ記録、すなわち5度目のチャンピオン獲得を次なる目標に定めました。けれども、そのシーズン終盤にはモンツァにおいてシュールなグランプリレースが開催されることとなります。それはモータースポーツ界が2つの悲劇に衝撃を受けている時でした。ひとつ目の悲劇は、9月11日にニューヨークの世界貿易センターとワシントンで同時多発テロが起きたことで、もうひとつは、決戦の前日にラウジッツリンクで悲惨な事故が発生し、パドックの人気者だったアレッサンドロ・ザナルディが昏睡状態に陥ってしまったことです。両タイトルの決着がついていたことから、多くのドライバーはそのグランプリを中止にするべきだと思っていましたが、フォーミュラ・ワン・マネージメント社は全チームの出場を要求しました。 フェラーリは敬意と哀悼の意を表すため、マシンやウェアから一切のスポンサーロゴを取り除くとともに、マシンのノーズコーンを黒く塗りました。また、前年のレースでCEAの消防士パオロ・ギスリンベルティが事故で亡くなっていることから、シューマッハは、1周目について第2シケイン通過までの追い越しを禁止にしようと提案しますが、ベネトン、BAR、そしてアロウズのチーム代表はそれに反対しました。レースは最後まで何事も無く進行し、ウィリアムズのモントーヤがバリチェロを抑えてF1初優勝を果たしています。しかし、誰一人として浮かれ騒ぐ者はいませんでした。

2回目の世界タイトル

2001年の傑作