1953
1954

最後のパンアメリカン

マリオーリがカレラで優勝

最後のパンアメリカン
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750 Monza
553 F1
250 Monza
375 Plus
1954
最後のパンアメリカン
1954最後のパンアメリカン
00:00
各種の瞬間ガレージ
1947
1947初勝利
1948166 MMのデビュー
1949ル・マン勝利
1950
1950赤のミッレミリア
1950F1デビュー
1951F1初勝利
1952マルゾットのモナコ優勝
1952アスカリの勝利
1953スポーツカー選手権
1954最後のパンアメリカン
1954パリのクイーン
1955クーペのレディ
1956チャンピオンファンジオ
1957CALIFORNIA DREAMING
1957最後のミッレミリア
1958優美なチャンピオン
1959米国に挑む
1960
1960シリーズ開始
1961赤の独占
1962マスターピース
1963ル・マン、イタリア
19642つの世界のヒーロー
1965タルガで勝利
1966至宝の365 P
1967伝説のゴール
1968勝利への賛辞
1968アルゼンチンタンゴ
1969タスマニアのディーノ
1969ヨーロッパのマスターズ
1969新しいパートナー
1970
1970512 Sの奇跡
1971365 GT4 BB
1972312 P全勝
1972ホームサーキット
1973DINO 308 GT4が到着
197450回目の熱狂
1975チャンピオンのラウダ
1975初回
1976見事なオートマチック
19772回目のニキ
1978故郷で才能開花
1979シェクター世界一
1980
19808気筒エンジンを搭載した4シーター
1981モナコでターボが優勝
1982無敵の308 GTB
1983オープエアの楽しみ
1984フェラーリ初
1984スタイルの傑作
1985328、最後の舞台
1986米国の脅威
1987エンツォの夢
1988別れの日
1989マンセルのギア
1990
1990F1GP 100 勝
1991アイコンの進化
1992クラシックGT
1993クライアント専用
1994究極の洗練
1995F1ロードカー
1996シューマッハ初
1997革命的なギアボックス
1998スピード・フォルム
1999頂点に復帰
2000
200021年後
20012回目の世界タイトル
2002創業者への敬意
2003追悼アニエッリ
2004制止不能
2005SUPERAMERICAの魔術
2006エクスクルーシブXXプログラム
2007キミ、逆転王者
2008再びチャンピオン
2009ベンチマーク・カー
2010
2010赤のファン
2011全天候型FF
2012性能とデザイン
2013究極の革新
2014究極
2015未来に向かって
201670周年の象徴
2016株式市場の上場
2017祝!70周年
2018セルジオとの別れ
2019異なるオーナーには異なるフェラーリを
2020
2020優れた回復力を発揮するブランド
2021大きな変化の年
1954初めての世界タイトル

最後のパンアメリカン

マリオーリがカレラで優勝

カレラ・パナメリカーナは、伝説となったレースの中でも特別な存在です。レースというよりも、むしろ大西洋を渡る厳しいアドベンチャーでした。グアテマラとの国境から米国との国境まで、未舗装の道を含む3,000 kmの道のりを走りメキシコを縦断します。

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走行距離が950kmにおよぶ2つの連続するステージを、わずか30分の休憩を挟むだけで走らなければならないほどの過酷なレースです。1950年から1954年までの5年間、毎年11月下旬に開催されていましたが、危険を理由に政府が中止を要請しました。中止となるまでの間に、この「長距離レース」は、ミッレミリアやル・マン24時間レースと同様の評判を呼び、ラジオ等のマスコミ媒体によって多くの報道がなされています。各種の困難な状況や、車や人を送り込むことに対する費用的課題が立ちはだかるにもかかわらず、欧州や北米の大手メーカーはこのレースへの出場を望んでいました。ブランド力を高めることや賞金を獲得することはもちろんですが、欧州メーカーにとっては米国での車両販売につなげることも目的のひとつでした。大きな利益が得られればレースへの投資を埋め合わせることができたのです。フェリーチェ・ボネットもそのひとりです。しかし、カレラ・パナメリカーナは勝者の存在意義を決めるほどのレースでした。これに当てはまるのがウンベルト・マリオーリです。彼は、自身の良き師であるジョバンニ・ブラッコとともに、ミッレミリアやタルガ・フローリオなどの耐久レースでレーサーとしてのキャリアをスタートさせた人物です。1952年、彼は初出場のカレラ・パナメリカーナでLancia Aureliaを駆り、ルイジ・キネッティに次ぐ4位でフィニッシュしています。この結果によって道が切り開かれたマリオーリは、1953年にフェラーリへ移籍します。しかし、実際に移籍したのは、彼がランチアのドライバーとしてタルガ・フローリオを制した後のことです。

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マイク・ホーソーンは、ペスカーラ12時間レースで跳ね馬に勝利をもたらすと、彼のほかに176名がエントリーしていたカレラ・パナメリカーナにも375 MMで臨んでいます。レース全体を支配したのは強豪チームのランチアです。マリオーリは、4つのステージを制しながらも、タイヤのトラブルに見舞われてレース中断を余儀なくされてしまい、マリオ・リッチのマシンに乗り換えます。フェラーリ・モデルの輸送業務全般に対して資金援助をしていたマリオ・リッチは、フランコ・コルナッキアとルイジ・キネッティのスクーデリア・グアスタッラから出場していました。メキシコのマスコミに「ステアリングを握った自殺者」や「狂ったイタリア人」といったニックネームを付けられたマリオーリは、最終ステージのロングストレートを猛烈に飛ばしましたが、差を埋めることはできませんでした。それでも、フェラーリはスポーツカー選手権で優勝を飾っています。マリオーリはロードの世界最速記録を打ち立てると、チワワ-シウダー・フアレスのステージを平均速度222.59 km/hで制しました。新聞は、彼のドライブする375 MMが、クエルナバカの高速道路で270 km/hをマークしたと報じています。マリオーリは、スポーツカーレースで3回の優勝を飾った後、1954年にカレラ・パナメリカーナに戻って勝利を手にします。

シーズンを通して最も厳しいレースであったことは確かであるため、カレラ・パナメリカーナでの勝利は彼の存在をひと際アピールするものとなりました。このときランチアは出場していませんでしたが、ポルシェとアルファロメオが参戦しています。 レースはフェラーリ同士の戦いでした。フィル・ヒル/リッチー・ギンサー組は、リヤのフィンを特徴とするブルーとホワイトの375 MM Vignale Spiderを、そして、パワフルで高性能なマシンを巧みに操るマリオーリは、375 Plus Pininfarina Spiderをそれぞれドライブしました。一度も走ったことのないサーキットを直感的な「理解」で走れることがマリオーリにとっての最大の強みです。彼はレース序盤でタイヤをセーブし、終盤のロングストレートで加速する方法を心得ていました。マリオーリのドライブする375 Plusは、米国人オーナーのアーウィン・ゴールドシュミット(有名な銀行家ヤコブの親戚)がレースのために彼に提供したもので、レース直後には別の米国人に売却されています。最後となったカレラ・パナメリカーナは、マリオーリが17時間40分26秒というタイムで勝利を収めました。彼は平均速度においても173.692 km/hという記録をマークしています。それほど目覚ましかったにも関わらず、彼の走りが原因で主催者がレースの中止を決定したと言う人もいます。そして、フェラーリは、1954年の世界スポーツカー選手権でも優勝を飾ります。さらに、1953年、1956年、1968年とタルガ・フローリオを3回制しているマリオーリは、自身の名前がそのレースの同義語となりました。マリオーリは、1954年にモンツァで開催されたF1イタリアGPでスクーデリア・フェラーリに3位という結果をもたらすと、1964年のセブリング12時間レースではパークスとともに275 Pで勝利を飾っています。

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1954 Masterpieces