1969
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ヨーロッパのマスターズ

シェティが欧州ヒルクライムで優勝

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365 GTS4
365 GTS
212 E
312 F1-69
1969
ヨーロッパのマスターズ
1969ヨーロッパのマスターズ
00:00
各種の瞬間ガレージ
1947
1947初勝利
1948166 MMのデビュー
1949ル・マン勝利
1950
1950赤のミッレミリア
1950F1デビュー
1951F1初勝利
1952マルゾットのモナコ優勝
1952アスカリの勝利
1953スポーツカー選手権
1954最後のパンアメリカン
1954パリのクイーン
1955クーペのレディ
1956チャンピオンファンジオ
1957CALIFORNIA DREAMING
1957最後のミッレミリア
1958優美なチャンピオン
1959米国に挑む
1960
1960シリーズ開始
1961赤の独占
1962マスターピース
1963ル・マン、イタリア
19642つの世界のヒーロー
1965タルガで勝利
1966至宝の365 P
1967伝説のゴール
1968勝利への賛辞
1968アルゼンチンタンゴ
1969タスマニアのディーノ
1969ヨーロッパのマスターズ
1969新しいパートナー
1970
1970512 Sの奇跡
1971365 GT4 BB
1972312 P全勝
1972ホームサーキット
1973DINO 308 GT4が到着
197450回目の熱狂
1975チャンピオンのラウダ
1975初回
1976見事なオートマチック
19772回目のニキ
1978故郷で才能開花
1979シェクター世界一
1980
19808気筒エンジンを搭載した4シーター
1981モナコでターボが優勝
1982無敵の308 GTB
1983オープエアの楽しみ
1984フェラーリ初
1984スタイルの傑作
1985328、最後の舞台
1986米国の脅威
1987エンツォの夢
1988別れの日
1989マンセルのギア
1990
1990F1GP 100 勝
1991アイコンの進化
1992クラシックGT
1993クライアント専用
1994究極の洗練
1995F1ロードカー
1996シューマッハ初
1997革命的なギアボックス
1998スピード・フォルム
1999頂点に復帰
2000
200021年後
20012回目の世界タイトル
2002創業者への敬意
2003追悼アニエッリ
2004制止不能
2005SUPERAMERICAの魔術
2006エクスクルーシブXXプログラム
2007キミ、逆転王者
2008再びチャンピオン
2009ベンチマーク・カー
2010
2010赤のファン
2011全天候型FF
2012性能とデザイン
2013究極の革新
2014究極
2015未来に向かって
201670周年の象徴
2016株式市場の上場
2017祝!70周年
2018セルジオとの別れ
2019異なるオーナーには異なるフェラーリを
2020
2020優れた回復力を発揮するブランド
2021大きな変化の年
1969耐久レースでの活躍

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シェティが欧州ヒルクライムで優勝

ピーター・シェッティはスイスの裕福な家庭に育った若者で、繊維会社を経営する家族は彼を支援していました。家族は彼が父親と一緒に会社経営に携わることを望んでいたものの、レースに対して情熱を持っていた彼は、1966年に開催されたヨーロッパヒルクライム選手権のGTカテゴリーに出場すると2位に入って自身の才能を示しました。

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2つの学位を得て学業を終えたあとは、アバルトのドライバーとして正式に契約します。25歳の時に参戦した1967年のヨーロッパヒルクライム選手権では3位でフィニッシュしています。当然の結果として、カール・アバルトが1968年におけるシェッティとの契約を更新すると、彼は多数のスポーツカーレースに出場して優勝を飾りました。 しかし、才能発掘の達人であったエンツォ・フェラーリがこの若者の獲得に乗り出し、先に翌年の契約を交わします。シェッティは専門家達の間で良い評判を呼んでいました。ニュルブルクリンクのハンセアートドライビングスクールで教官を務めていたポール・フレールも、真面目で、理論的で、素晴らしい走りを見せる彼のことをはっきりと覚えていたほどです。エンツォ・フェラーリがシェッティをマラネッロに呼んだとき、彼は少し興奮と緊張に包まれていましたが、すべてがうまく運びました。彼は、212 Eの開発と1969年のヨーロッパヒルクライム選手権への出場に関する契約をスクーデリアと交わします。また、世界スポーツプロトタイプ選手権用に開発したP 312のテストも行い、そのマシンでモンツァ1000 kmとスパ24時間にも出場しましたが、チームメイトのミスが原因でフィニッシュラインを超えることはできませんでした。しかし、シェッティはヒルクライムシーズンに輝かしい成績を収めることとなります。彼は、アバルトのアルトゥーロ・メルツァリオを7戦7勝で抑え、ヨーロッパヒルクライム選手権で優勝を飾ったのです。 チームは、シェッティのほか、フェラーリのエンジニアであるマレリと2名のメカニックで構成されていました。いくつかのスペアパーツも用意されましたが、 予備のエンジンは用意されませんでした。全てにおいて経済性が優先されていたため、トラブルの発生する余地はありませんでした。シェッティは、スペインのモンセニー、ドイツのロスフェルト、フランスのモン・ヴァントゥ、イタリアのトレント-ボンドーネ、再びドイツのフライブルク、さらにイタリアのチェザーナ-セストリエール、そして母国スイスのオロン-ヴィラールで優勝を飾ります。Ferrari 212 E(シャシーNo.0862)は、ヨーロッパヒルクライム選手権専用に設計されたマシンです。

搭載する2リッターの水平対向12気筒エンジンは、1965年のF1世界選手権で使用したエンジンをベースにしたもので、当時としては高回転の領域である11,800 rpmにおいて最高出力300 cv を発生しました。低く構えたコンパクトなボディによって、山道では俊敏性に優れた走りを披露しました。きわめて精緻なエアロダイナミクス性能、 闘志を強調したオールレッドのカラーリング、スポンサーロゴがあしらわれていない点、大型のリヤスポイラー、そしてノーズに設けた2つのサイドフラップが特徴です。 シェッティは、タスマンカップ用のDino 246に加え、1970年のF1シーズン用に開発した3.0リッターの水平対向12気筒エンジンについてもテストを実施しました。翌年、彼は国際メーカー選手権のチームに加わって何度か表彰台に上がります。その後、212はプライベートドライバーのエドアルド・ルアルディ-ガバルディに売却されると、エドアルドはイタリアマウンテントロフィーで優勝を飾ります。1970年末、フェラーリは、シェッティにレースの出場を止めてチームマネージャー兼テスターになることを提案しました。シェッティはこれを受け入れると、1971年と1972年の2年間にわたり国際メーカー選手権のチームを指導することとなります。1971年はドライバーのトラブルが頻繁に発生したために成績は芳しくありませんでしたが、1972年には、3リッターエンジンを搭載する312 PBによって、 チームが前人未到の11戦10勝で世界選手権のタイトルを獲得します。1973年、シェッティは家族の経営する会社へ戻ることを決意してレースの世界を離れました。

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