1948
1949

ル・マン勝利

24時間レース初制覇

ル・マン勝利
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1950
ル・マン勝利
1949ル・マン勝利
00:00
各種の瞬間ガレージ
1947
1947初勝利
1948166 MMのデビュー
1949ル・マン勝利
1950
1950赤のミッレミリア
1950F1デビュー
1951F1初勝利
1952マルゾットのモナコ優勝
1952アスカリの勝利
1953スポーツカー選手権
1954最後のパンアメリカン
1954パリのクイーン
1955クーペのレディ
1956チャンピオンファンジオ
1957CALIFORNIA DREAMING
1957最後のミッレミリア
1958優美なチャンピオン
1959米国に挑む
1960
1960シリーズ開始
1961赤の独占
1962マスターピース
1963ル・マン、イタリア
19642つの世界のヒーロー
1965タルガで勝利
1966至宝の365 P
1967伝説のゴール
1968勝利への賛辞
1968アルゼンチンタンゴ
1969タスマニアのディーノ
1969ヨーロッパのマスターズ
1969新しいパートナー
1970
1970512 Sの奇跡
1971365 GT4 BB
1972312 P全勝
1972ホームサーキット
1973DINO 308 GT4が到着
197450回目の熱狂
1975チャンピオンのラウダ
1975初回
1976見事なオートマチック
19772回目のニキ
1978故郷で才能開花
1979シェクター世界一
1980
19808気筒エンジンを搭載した4シーター
1981モナコでターボが優勝
1982無敵の308 GTB
1983オープエアの楽しみ
1984フェラーリ初
1984スタイルの傑作
1985328、最後の舞台
1986米国の脅威
1987エンツォの夢
1988別れの日
1989マンセルのギア
1990
1990F1GP 100 勝
1991アイコンの進化
1992クラシックGT
1993クライアント専用
1994究極の洗練
1995F1ロードカー
1996シューマッハ初
1997革命的なギアボックス
1998スピード・フォルム
1999頂点に復帰
2000
200021年後
20012回目の世界タイトル
2002創業者への敬意
2003追悼アニエッリ
2004制止不能
2005SUPERAMERICAの魔術
2006エクスクルーシブXXプログラム
2007キミ、逆転王者
2008再びチャンピオン
2009ベンチマーク・カー
2010
2010赤のファン
2011全天候型FF
2012性能とデザイン
2013究極の革新
2014究極
2015未来に向かって
201670周年の象徴
2016株式市場の上場
2017祝!70周年
2018セルジオとの別れ
2019異なるオーナーには異なるフェラーリを
2020
2020優れた回復力を発揮するブランド
2021大きな変化の年
1949伝説の誕生

ル・マン勝利

24時間レース初制覇

時間の経過がゆっくりに感じられるようになった後で、最終的にはどのくらい時間が経ったのかも分からなくなり始めました。しかし、それでもなお、ルイジ・キネッティはステアリングホイールをしっかりと握り、サーキットのアスファルト上で自身のマシンを走らせ続けました。長い距離でした。とてつもなく長い距離です。実際に走った距離は13,492 km。 キネッティは、1人で20時間以上もマシンを走らせました。つまり、たった1人でレースに挑んだのです。

ル・マン勝利

キネッティのコ・ドライバーであるとともに車両のオーナーでもあったセルスドン男爵が、体調不良に見舞われ、ピーター・ミッチェル・トムソンとしてよく知られている彼は、ステアリングを握って1時間ほど経過した頃から体調に異変が生じ、レースの続行が不可能になってしまったのです。残されたキネッティは、その事態を自分の運命として受け入れました。こうして時間、ライバル、そして力学的法則との戦いが始まりました。そして結果的に、彼はモータースポーツの歴史に名を残す偉大な人物となったのです。 1949年、世界で最も過酷かつ有名で、見る者を魅了するレース「ル・マン24時間」において、キネッティはフェラーリに初優勝をもたらしました。これは彼がル・マンで獲得した3度目の勝利です。 キネッティはイタリアの生まれでしたが、生活の拠点はアメリカにありました。彼はインディアナポリスでのレースに参戦するため、1940年の5月に初めて渡米しました。しかし、彼が米国に到着してから数日後に、イタリアは戦争に突入したのです。その結果、キネッティは米国に留まり、米国の市民権を獲得するという決断を下しました。しかし、彼はイタリア人としての精神性を維持していたため、友人のエンツォ・フェラーリが造った車をいずれ米国に輸入したいと考えていました。やがて終戦を迎えると、キネッティはイタリアに戻ってドレーク(エンツォ・フェラーリの愛称)を訪ねました。彼はフェラーリの高速マシンをレースで走らせたいと思っていたのです。理由はとても簡単で、フェラーリの売上げを伸ばしたかったからです。

ル・マン勝利

フェラーリとキネッティは、かつて2人がアルファロメオと関わり合っていた時分に、初めて友人関係になりました。事実、キネッティは、1932年と1934年のル・マン24時間をゴージャスなAlfa 8Cで制しています。彼のレーサーとしてのキャリアは非常に長く、ル・マンでの勝利から15年が経過した後も、彼は高いモチベーションを維持しながら第一線で活躍し続けたのです。彼は設立後わずか2年しか経っていないフェラーリに、ル・マン24時間での勝利を授けました。 そして、その勝利は、あらゆる予想を覆すかたちでもたらされました。なぜなら、2リッターのV12エンジンを搭載するマシンが優勝を飾ることなど過去に例がなかったからです。

ル・マン勝利

166 MM Barchettaがトップでフィニッシュラインを駆け抜けフランスの地で勝利を手にしたことで、新たな革新的ブランドが国際的な舞台でその名を世に知らしめました。それが跳ね馬です。 クレメンテ・ビオンデッティがミッレミリアで166 MMをドライブした際、このマシンのポテンシャルが優れていることはすでに明らかでした。キネッティとセルスドン男爵がル・マンで勝利した際のものと同一のシャシーが採用されていたのです。 それからちょうど2週間後、ルイジ・キネッティはジョン・リュカとペアを組み、別の166 MMでスパ24時間を制しました。複数の勝利を手にしたことで、彼はその年、当初の狙い通りに、アメリカ国内で数台の車両を販売しています。

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