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タスマニアのディーノ

エイモンがタスマニアカップで優勝

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365 GTS4
365 GTS
212 E
312 P
1969
タスマニアのディーノ
1969タスマニアのディーノ
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1969耐久レースでの活躍

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エイモンがタスマニアカップで優勝

人生は本当に不思議です。クリス・エイモンは、F1世界選手権で数シーズンにわたってフェラーリのマシンを駆り、何度か優勝に近づいたにもかかわらず、結局1勝もできなかったことで歴史に名を残しました。

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1970年にマーチから出場したシルバーストーンでの国際トロフィー、そして1971年にマトラから参戦したアルゼンチングランプリでそれぞれ優勝を飾りますが、いずれもノンタイトルレースでした。しかし、エイモンとロレンツォ・バンディーニは、1967年のデイトナ24時間レースで圧勝し、フェラーリはこの耐久レースで表彰台を独占しました。このペアは、モンツァ1000 kmでも偉業を繰り返しています。エイモンは、シングルシーターでも活躍を見せており、フェラーリから出場した1969年のタスマンカップでジム・クラークに次ぐ2位を獲得すると、翌年の同レースでは優勝を飾っています。当時のドライバーは、シリーズやカテゴリーに縛られることがありませんでした。 多額の契約料に引かれて、F1だけでなくスポーツプロトタイプやF2にも挑戦したのです。F1シーズンの最中やその前後など、 チャンスはいつでも存在していました。当時は、12月のテンポラーダアルゼンチン、そして1月から2月にわたって開催されるタスマンカップに出場するのが恒例でした。ドライバー達がレースで使用していたマシンは、前シーズンのF1マシンや、排気量を2,500 ccに引き上げてチューニングを施したF2のシングルシーターです。これはチームにとっての重要なステージでした。プライベートドライバーに、マシン、エンジン、スペアパーツなどを販売することができたからです。レースはニュージーランドとオーストラリアで開催。両国を分けるタスマン海がレース名の由来です。常設サーキットやシティーサーキットを使用し、一方の国で4レース、他方の国で3レースが行われました。1968年に2レースを制しながらもタイトルを逃したエイモンは、1969年も優勝候補に挙がっていました。彼がステアリングを握ったのは、Ferrari Dino 246 Tasmania(246T/69)です。このマシンは1気筒あたり4つのバルブを備えたV6エンジンを搭載しており、その最高出力は290 cvにおよんでいました。166 Dino F2の排気量を2,404 ccに増大させた改良型のモデルです。

エイモンは、最も有名なプケコヘ(オークランド近郊)の開幕戦でポールポジションから優勝を飾ると、最終的にタスマニアグランプリのタイトルを獲得します。彼の後には、彼の最大のライバルでロータスの僚友であるヨッヘン・リント、グラハム・ヒル、ピアス・カレッジ(チーム・ウィリアムズのブラバム)、2台目のフェラーリを駆るデレック・ベルが続きました。フェラーリを代表する2台のマシンは、スペアのエンジンを備えていました。レビンでの第2戦もエイモンが優勝します。しかし、ウィグラムでの第3戦はリントが制し、エイモンは3位、ベルは5位でした。テレトンガにおける第4戦も、フェラーリのドライバーは同一の順位を獲得しています。このレースではカレッジが勝利を挙げましたが、ヒルも2連続の2位によって差を縮めます。

エイモンは、ゴールドコーストのレイクサイドで開催されたオーストラリアGPでようやく順位を戻します。練習走行でベストタイムを出したうえに、レースを勝利で飾ったのです。シドニーのワーウィックで行われた次のレースはリントが制したものの、メルボルンのサンダウンパークではクリス・エイモンが見事な勝利を飾ってタスマンカップのタイトルを獲得します。これに対してデレック・ベルは、総合4位に入りました。エイモンは2年間で6回の優勝を飾っています。1970年には、プライベートドライバーのグレーム・ローレンスが彼のフェラーリを購入します。グレーム・ローレンスは1970年のレースで1勝を挙げたほか、入賞も数回経験し総合優勝を果たしています。この年からシリーズはF5000のマシンを認可したため、F1マシンはエントリーされなくなりました。

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1969 Masterpieces