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タルガで勝利

275 P2がシチリアで優勝

タルガで勝利
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330 P2
Dino 166P
Dino 206 SP
275 P2
1966
タルガで勝利
1965タルガで勝利
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1965耐久レースでの活躍

タルガで勝利

275 P2がシチリアで優勝

「飛ぶように速い校長」のニックネームをもつニーノ・ヴァッカレラは、タルガ・フローリオにおける伝説の人物のひとりです。彼は地元の英雄であるとともに大衆の寵児でもあり、サーキットを取り囲む壁には彼の名前が落書きされています。 3回の優勝と2回の3位入賞を果たしており、数度のリタイアがなければ、あと2回は優勝を飾っていたはずです。

タルガで勝利

シチリアのパレルモを出身地とするヴァッカレラは、法学部を卒業しており、父の死後は、家族が経営する学校の校長となり、妹と共にその経営に一生をささげる決意をします。 その後、彼はレースと出会います。子供の時分からレースは彼を虜にしていましたが、彼は自分の選択した職業ではレースへの情熱が実を結ぶことのないことを残念に感じていました。確かに、チャンピオンとなるにふさわしい資質を備えていたにも関わらず、彼の果たした優勝回数は19にとどまったのでした。 エンツォ・フェラーリは、彼がレース仕様のスポーツカーのステアリングを握るのに最もふさわしい人材であると考えます。そしてジャン・ギシェと一緒に275 Pを駆ったヴァッカレラが、1964年のル・マン24時間レースで優勝を飾り、世界スポーツカー選手権におけるスクーデリアのタイトル獲得に貢献すると、エンツォの考えが正しかったことが証明されます。しかし、学校の仕事に対する責任感から、彼はル・マン優勝後の祝賀会を欠席し、レース翌日の月曜日には朝から仕事に出かけます。 勢いに乗ったこの1964年、ヴァッカレラはセブリングで2位に入ると(1963年も同様)、ニュルブルクリンク1,000 kmレースとモンツァのインターヨーロッパカップでは1位を獲得しました。 そして翌年の1965年には、地元開催のタルガ・フローリオで跳ね馬をドライブし優勝を収めます。このタルガ・フローリオは1周72 kmのコースを周回するレースで、マドニエ山地を通るそのコースは過酷な条件が揃っていました。1965年に開催されたこのタルガ・フローリオで彼はロレンツォ・バンディーニと組み、イタリアのドライバーとマシンによるオールイタリアチームに勝利をもたらしたのです。ポルシェとフォードが公式参戦する中、2名のドライバーはそれらを見事に抑えました。 約250,000人の観衆が見守る前で、彼らは10周(合計720 km)を7時間1分12秒で走破し、新たなコースレコードを樹立します。

当時、ヴァッカレラは32歳、バンディーニは30歳でした。彼らはイタリアを代表する若者として、国際的な舞台で記録に残る走りを披露しました。フェラーリはこのイタリア人の若者たちのことが気に入って、彼らを息子のように扱い、2人が互いにライバル同士にならないよう取り計らいました。それぞれに対して個別のチャンスを与え、燃え尽き感や喪失感を覚えさせることなくキャリアをスタートできるよう努めたのです。そして1965年、フェラーリはヴァッカレラをF1イタリアGPのドライバーに指名します。しかし158のステアリングを握った彼は、6位を維持しながらもエンジンの故障でリタイアを余儀なくされてしまいました。こうした不運に見舞われたにもかかわらず、1964年と1965年はヴァッカレラにとって喜ばしい年でした。 F1世界選手権で4位でゴールしたばかりのバンディーニもル・マンでの優勝経験があり、タルガ・フローリオでは2度の2位を獲得しました。この結果から、彼はタルガ・フローリオで優勝すると心に決めた様子でした。そして、ヴァッカレラと組むことで、彼はついにその目標を成し遂げたのです。 彼らがドライブしたPシリーズのP 275は、1964年から4年間にわたってさまざまなモデルへと展開されました。1965年には、このシリーズ初の進化モデルが275 P2として登場し、大型エンジン搭載の330 P2と一緒にレースに出場しています。275 P2には、フェラーリのスポーツカーとして初めてアルミニウムボディが採用されました。

タルガで勝利

1965 Masterpieces