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50回目の熱狂

ラウダとフェラーリがF1 50勝目

50回目の熱狂
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312 B3-74
1975
50回目の熱狂
197450回目の熱狂
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1974ニキからジョディーへ

50回目の熱狂

ラウダとフェラーリがF1 50勝目

1974年はF1活動を行うフェラーリにとって重要な年となりました。マネージメントとドライバーの両方に大勢の新人を迎え、レーシングチームを抜本的に再編成したのです。これを機にドライバーのローテーションには終止符が打たれ、選ばれた2名のドライバーがシーズンを通して戦うこととなりました。

50回目の熱狂

さらにフェラーリは、悩み抜いた末に適切な決断を下しています。それはF1に専念するため、世界スポーツ選手権への出場を断念するというものでした。技術部門では、マウロ・フォルギエリが再び全権を取り戻すと、新しくて革新的なソリューションの提案が自由に行われるようになりました。 チームディレクターは26歳のルカ・ディ・モンテゼーモロで、ドライバーはBRMチームから1年でフェラーリに復帰したクレイ・レガツォーニ、そして同様にBRMから移籍したオーストリア出身のニキ・ラウダでした。レガツォーニは、ブリティッシュ・レーシング・モータースのチームメイトとしてラウダのレースを1年間見た結果、エンツォ・フェラーリに彼を推薦したのです。レガツォーニによると、ラウダはジャン・ピエール・ジャリエだけでなく、ピーター・レブソンとジェームズ・ハントにも勝る大きな潜在能力を秘めていたとのことです。いずれにせよ、エンツォ・フェラーリが若い才能を発見するための洞察力と勇気を備えていたことは、このケースからも明らかでした。各ドライバーのために専任のメカニックチームを導入するというのも、この年をきっかけに始まったことのひとつです。クレイのチーフメカニックはジュリオ・ボルサリで、ニキのメカニックはエルマンノ・クォーギィでした。 勝利を獲得するために誕生したマシンである312 B3は、ドライバーの頭上後方にそびえるエアインテークが特徴的で、レッドでカラーリングされたそのエアインテークには、中央部にホワイトのラインがあしらってありました。これらのカラーは、ニキ・ラウダの故郷の国旗を思い起こさせるものですが、クレイ・レガツォーニの祖国スイスの国旗もイメージさせます… 312-B3は最初から優れた競争力を披露しており、デビュー戦となったアルゼンチンGPでは、ラウダとレガツォーニが2位と3位に入っています。その後はレガツォーニがブラジルGPで2位を飾ると、ニキ・ラウダがマドリッド郊外のハラマ・サーキットにおけるスペインGPを制し、スクーデリア・フェラーリに50回目の勝利をもたらしました。このスペインGPではレガツォーニが2位に入ったため、フェラーリはワンツーフィニッシュを達成しています。 ハラマで優勝したラウダは、ポールポジションを獲得するとともに最速ラップもマークしました。レースの序盤は雨に見舞われ、何度もポジションが入れ替わる展開となりましたが、そうした中でウェットコンディションに強いロニー・ピーターソンが首位に立ちました。そして中盤を過ぎた頃に雨が上がると、タイヤ交換のためのピットストップが状況を一変させます。フェラーリのメカニックは、ラウダのピットストップをわずか35秒で完了させました。これは1974年のタイムとしては驚くべき速さです。

ラウダはすぐに首位を奪回すると、3番手のグリッドからスタートしたレガツォーニを35秒以上引き離して優勝を飾りました。3位のエマーソン・フィッティパルディが1周遅れでのフィニッシュとなったことから、レースを終始完璧なかたちで走り切ったのはフェラーリだけということになります。第4戦が終了した時点では、レガツォーニがラウダとフィッティパルディを抑えて総合のトップ、フェラーリはコントラクターズ2位のランキングでした。

50回目の熱狂

1974年の傑作