1999
2000

21年後

SCHUMACHER AND FERRARI CHAMPIONS

21年後
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F1-2000
360 Challenge
550 Barchetta Pininfarina
360 Spider
2001
21年後
200021年後
00:00
各種の瞬間ガレージ
1947
1947初勝利
1948166 MMのデビュー
1949ル・マン勝利
1950
1950赤のミッレミリア
1950F1デビュー
1951F1初勝利
1952マルゾットのモナコ優勝
1952アスカリの勝利
1953スポーツカー選手権
1954最後のパンアメリカン
1954パリのクイーン
1955クーペのレディ
1956チャンピオンファンジオ
1957CALIFORNIA DREAMING
1957最後のミッレミリア
1958優美なチャンピオン
1959米国に挑む
1960
1960シリーズ開始
1961赤の独占
1962マスターピース
1963ル・マン、イタリア
19642つの世界のヒーロー
1965タルガで勝利
1966至宝の365 P
1967伝説のゴール
1968勝利への賛辞
1968アルゼンチンタンゴ
1969タスマニアのディーノ
1969ヨーロッパのマスターズ
1969新しいパートナー
1970
1970512 Sの奇跡
1971365 GT4 BB
1972312 P全勝
1972ホームサーキット
1973DINO 308 GT4が到着
197450回目の熱狂
1975チャンピオンのラウダ
1975初回
1976見事なオートマチック
19772回目のニキ
1978故郷で才能開花
1979シェクター世界一
1980
19808気筒エンジンを搭載した4シーター
1981モナコでターボが優勝
1982無敵の308 GTB
1983オープエアの楽しみ
1984フェラーリ初
1984スタイルの傑作
1985328、最後の舞台
1986米国の脅威
1987エンツォの夢
1988別れの日
1989マンセルのギア
1990
1990F1GP 100 勝
1991アイコンの進化
1992クラシックGT
1993クライアント専用
1994究極の洗練
1995F1ロードカー
1996シューマッハ初
1997革命的なギアボックス
1998スピード・フォルム
1999頂点に復帰
2000
200021年後
20012回目の世界タイトル
2002創業者への敬意
2003追悼アニエッリ
2004制止不能
2005SUPERAMERICAの魔術
2006エクスクルーシブXXプログラム
2007キミ、逆転王者
2008再びチャンピオン
2009ベンチマーク・カー
2010
2010赤のファン
2011全天候型FF
2012性能とデザイン
2013究極の革新
2014究極
2015未来に向かって
201670周年の象徴
2016株式市場の上場
2017祝!70周年
2018セルジオとの別れ
2019異なるオーナーには異なるフェラーリを
2020
2020優れた回復力を発揮するブランド
2021大きな変化の年
2000シューマッハの圧倒的強さ

21年後

SCHUMACHER AND FERRARI CHAMPIONS

フェラーリは、2000年のシーズン用に開発したF1マシンが競争力の高いパッケージに仕上がっていると実感していたため、シーズンの開幕を心待ちにしていました。 また、エディ・アーバインがジャガーに移籍したため、ブラジル出身のルーベンス・バリチェロがミハエル・シューマッハのチームメイトとしてレースに参戦することが決まっていました。チームにとっての激動シーズンはこうして幕を開けます。シューマッハが開幕3連勝を果たすと、イギリス戦とスペイン戦ではマクラーレンが勝利を収め、ヨーロッパ戦とカナダ戦ではフェラーリが再びレースを制します。トップとの差は著しく、シューマッハが56ポイント、続くクルサードが34ポイント、ハッキネンが32ポイントでした。

21年後

7月には、フランス戦、オーストリア戦、そしてドイツ戦と、立て続けにレースが開催。しかし、7月のシューマッハはついていませんでした。マニクール・サーキットでのフランス戦では、レース全体の3分の2をミハエルがリードしていたものの、エフワンF1-ニセン2000のV型10気筒エンジンが故障してしまったのです。オーストリア戦とドイツ戦では、さらにひどい結果が待ち受けていました。A1リンクにおけるオーストリア戦では、ビーエーアールBARのリカルド・ゾンタに追突されてスピンし、後ろからきたジョーダンのヤルノ・トゥルーリと衝突。ドイツではベネトンのジャンカルロ・フィジケラと衝突しています。シューマッハはこの3つのレースでポイントを獲得できなかったため、クルサードとハッキネンとの差は2ポイントに縮まってしまいました。こうした中、バリチェロが18位からのスタートにもかかわらずホッケンハイムでF1初勝利を飾ったことで、スクーデリアは何とか持ち堪えることができました。全長約7キロのトラックは雨でその半分が水浸しになっていましたが、彼はその中をドライタイヤで走り続けて勝利を手にしたのです。ハンガロリンクではハッキネンがミハエルを破って優勝し、シーズンランキングで2ポイントリードしました。次のレースはスパフランコルシャンでのベルギーGP。ハッキネンは予選を支配すると、路面が乾きつつあった本戦でもスタートでリードを奪いました。しかし、13周目に入ると、ハッキネンはホイールが濡れた縁石で滑ったことからスピンをしてしまいました。すかさずシューマッハがトップに躍り出ます。 そこからハッキネンは猛烈な巻き返しを見せ、残り8周の時点でフェラーリをテール・トゥ・ノーズに追い込んだのです。 ハッキネンは何度かアタックを仕掛けましたが、シューマッハはフェラーリのトップスピードに助けられてそれをブロックすることができました。40周目には、周回遅れとなっていたビーエーアールBARのゾンタを両者が追い越そうとします。シューマッハは最速経路を選び、ケメルストレートのアウト側を通ってパスしようとしました。これに対し、ハッキネンは反対側を選んで勝負に出ます。ゾンタは自分の左側から赤くて小さな物体が飛び出し、右側から銀色の電光がオーバーテイクするのを目にしました。ハッキネンは自身のキャリアで最高のオーバーテイクを成功させて1位でフィニッシュラインを通過し、シーズンランキングにおいて6ポイントのリードを築きました。マクラーレンのドライバーがモンツァでシーズンの流れを完全に掴みたいと思っていた一方、フェラーリは結果を出さなくてはならない状態でした。そうした状況の中、シューマッハはイタリア戦でポール・トゥ・ウィンを成し遂げるとともに、最速ラップを叩き出したのです。このレースでは、ジョーダンのハインツ=ハラルド・フレンツェンのホイールが頭部に直撃したことで、シーイーエーCEAの消防士パオロ・ギスリンベルティが亡くなるという悲しい事故も起きています。この勝利はミハエルにとっての通算41勝目で、アイルトン・セナの記録に追いついたと悟った時、彼は胸がいっぱいになりました。しかし、チャンピオン争いは依然として先行きが不透明で、シューマッハは前年まで2年連続でワールドチャンピオンに輝いているハッキネンに2ポイント引き離されていました。 ところが、インディアナポリス郊外の新しいサーキットを舞台とした初のアメリカ戦は、フェラーリに大きな希望をもたらすことになります。レースでワンツーフィニッシュを決めたうえに、ハッキネンのリタイアによってシューマッハが8ポイント差でトップに立ったのです。続いて行われた10月8日の日本戦では、シューマッハがポールポジションを獲得したものの、スタートを失敗したためにハッキネンに先制されてしまいます。オーバーテイクが難しいコースであるため、状況を打開する鍵はレース戦略にありました。1回目のピットストップでロス・ブラウンが多めの燃料を補給したため、シューマッハは2回目のストップまで前がいない状態で3周を稼ぐことができました。

マクラーレンがピットインしている間、ミハエルは猛烈な速さで走り続けます。そしてフェラーリが次のストップを終えてピットアウトする時、ハッキネンはまだ最終コーナーを立ち上がったばかりであったことから、勝負は決着がつきました。世界中のファンは最後の13周をハラハラしながら見守りました。イタリア現地時間で朝6時59分のこと、1979年のジョディ・シェクター以来21年ぶりのタイトル獲得によって、不毛の時代に終わりを告げることができました。マラネッロでは鐘が鳴り響き、通りでは誰もが浮かれ騒いでいました。早朝ではあったものの、スクーデリア本社の外ではラッシュアワーさながらの渋滞が起きていました。2週間後のマレーシア戦ではシューマッハとバリチェロが1位と3位を決め、フェラーリのコンストラクターズタイトル獲得を決定づけています。

21年後

2000年の傑作