1977
1978

故郷で才能開花

ヴィルニューブがカナダで優勝

故郷で才能開花
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512 BB LM
312 T3
1979
故郷で才能開花
1978故郷で才能開花
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各種の瞬間ガレージ
1947
1947初勝利
1948166 MMのデビュー
1949ル・マン勝利
1950
1950赤のミッレミリア
1950F1デビュー
1951F1初勝利
1952マルゾットのモナコ優勝
1952アスカリの勝利
1953スポーツカー選手権
1954最後のパンアメリカン
1954パリのクイーン
1955クーペのレディ
1956チャンピオンファンジオ
1957CALIFORNIA DREAMING
1957最後のミッレミリア
1958優美なチャンピオン
1959米国に挑む
1960
1960シリーズ開始
1961赤の独占
1962マスターピース
1963ル・マン、イタリア
19642つの世界のヒーロー
1965タルガで勝利
1966至宝の365 P
1967伝説のゴール
1968勝利への賛辞
1968アルゼンチンタンゴ
1969タスマニアのディーノ
1969ヨーロッパのマスターズ
1969新しいパートナー
1970
1970512 Sの奇跡
1971365 GT4 BB
1972312 P全勝
1972ホームサーキット
1973DINO 308 GT4が到着
197450回目の熱狂
1975チャンピオンのラウダ
1975初回
1976見事なオートマチック
19772回目のニキ
1978故郷で才能開花
1979シェクター世界一
1980
19808気筒エンジンを搭載した4シーター
1981モナコでターボが優勝
1982無敵の308 GTB
1983オープエアの楽しみ
1984フェラーリ初
1984スタイルの傑作
1985328、最後の舞台
1986米国の脅威
1987エンツォの夢
1988別れの日
1989マンセルのギア
1990
1990F1GP 100 勝
1991アイコンの進化
1992クラシックGT
1993クライアント専用
1994究極の洗練
1995F1ロードカー
1996シューマッハ初
1997革命的なギアボックス
1998スピード・フォルム
1999頂点に復帰
2000
200021年後
20012回目の世界タイトル
2002創業者への敬意
2003追悼アニエッリ
2004制止不能
2005SUPERAMERICAの魔術
2006エクスクルーシブXXプログラム
2007キミ、逆転王者
2008再びチャンピオン
2009ベンチマーク・カー
2010
2010赤のファン
2011全天候型FF
2012性能とデザイン
2013究極の革新
2014究極
2015未来に向かって
201670周年の象徴
2016株式市場の上場
2017祝!70周年
2018セルジオとの別れ
2019異なるオーナーには異なるフェラーリを
2020
2020優れた回復力を発揮するブランド
2021大きな変化の年
1978ニキからジョディーへ

故郷で才能開花

ヴィルニューブがカナダで優勝

1978年10月6日金曜日の事でした。ケベック州モントリオールのノートルダム島に新設されたサーキットで、28名のF1ドライバーが初開催のカナダグランプリGPに向けてテスト走行を行いました。アップダウンが有名だったモスポート・パークはあまりにも危険であったことから、カナダグランプリGPはこの新しいサーキットで行われるようになったのです。

故郷で才能開花

1978年の最終戦、この時点で2つのタイトルが決定していました。コンストラクターズタイトルは79年型モデルを擁したロータスに、そしてドライバーズタイトルはアンドレッティに決定していたのです。しかしながら、モンツァグランプリGPでの事故のあとに亡くなったロニー・ピーターソンに勝利を捧げるため、英国のロータス・チームは勝利に向けた大きな意気込みを見せていました。1979年には多くのドライバーが移籍する予定でした。カルロス・ロイテマンもその中の1人で、ロータスへの移籍を前にした彼にとって、最終戦はスクーデリアにおける最後のレースとなりました。また、ウルフ・チームのジョディー・シェクターも、このシーズンを最後にチームを離れることになっていたのです。シェクターは、その後フェラーリ移籍すると、ジル・ヴィルヌーヴのパートナーを務めています。 カナダ人のヴィルヌーヴは、シーズンを通じてロイテマンに決定的な差をつけられていたものの、最終戦では粘りの走りを見せました。ブラジル、ロングビーチ、英国、ワトキンス・グレンで勝利したアルゼンチン出身のロイテマンは、ブラバムのニキ・ラウダとランキング争いを繰り広げた結果、3位でシーズンを終えています。これに対してヴィルヌーヴは、オーストリアでの3位、ベルギーでの4位、そしてオランダでの6位という順位によって、わずか8ポイントを獲得していたにすぎませんでした。しかし、エンツォ・フェラーリは彼を信じ、再びチャンスを与えたのです。ピーターソンの後任としてロータスから参戦していたジャン=ピエール・ジャリエは、予選で他を上回る走りを見せたものの、最初のセッションでリードされていたフェラーリも、雨の降る中で勝負強さを見せつけました。シェクターは2位でフィニッシュし、その後にヴィルヌーヴが続きました。決勝当日、コースはウエットコンディションで、気温は氷点下でした。レースは序盤からジャリエがトップを走り、5位から2位に順位を上げたジョーンズをシェクターとヴィルヌーヴが順番に追いかける展開となりました。先頭のロータスが圧倒的な速さで他を引き離す中、ジョーンズは、1979年にスクーデリアでペアを組むことになる2人を寄せ付けないようにするのが精一杯でした。18周目、シェクターはウィリアムズを抜き去りましたが、追いすがるヴィルヌーヴも次のラップで順位を3位に上げています。

その後、ヴィルヌーヴはウルフとの差を難なく詰めていくと、25周目には130,000人の期待に応えるべくウルフのマシンを抜き去りました。そして、シェクターを抜いたヴィルヌーヴは、すぐさまその勢いを強めました。残り20周となった時、周回遅れとなったジャック・ラフィットのリジェをジャリエが簡単に引き離せないでいる様子をカメラが捉えました。トップを走っていたジャリエは、急速なスローダウンを余儀なくされたのです。ブレーキシステムのトラブルにもかかわらず、ジャリエはリードを維持していましたが、最終的にはピットに戻らざるを得なくなりました。現カナダ首相ジャスティンの父親で、当時首相を務めていたピエール・トルドーが見守る中、ヴィルヌーヴはカナダGPでトップに躍り出ました。 ヴィルヌーヴがトップを走ったのは、自身のキャリアを通じてこれが4度目のことでした。初めてトップを走ったのはロングピーチでしたが、この時はクレイ・レガツォーニを追い越す際にステアリング操作を誤ってコースアウトしてしまいました。また、オーストリアでは数周だけ先頭の位置を維持しており、イタリアグランプリGPでは途中でトップを走ったものの、フライングによってフィニッシュタイムに1分が加算されるというペナルティを受けています。ヴィルヌーヴは再び嫌なことが起きるのではという不安にかられていました。そしてレース後には、この時のことについて次のように話しています。「終盤のラップは拷問でした。マシンからさまざまなノイズが聞こえたような気がして、[…]シフトポイントを、自ら11,500回転から10,000回転に下げました。自分に何度も何度も言い聞かせました。大丈夫だ。フェラーリなんて壊れたりしない。絶対に壊れないんだ!って」ケベック州で初めて開催されたカナダGPは、1時間半におよぶバトルの末、ヴィルヌーヴのドライブするフェラーリがチェッカーフラッグを受けるという結末で終了しています。このレースには初めてのことがいくつかありました。モントリオールにおける初めてのレースであること、カナダ人が初めて母国で勝利したこと、ヴィルヌーヴ自身の初勝利であったこと、BBCが初めてライブ中継したこと、そしてこの時だけ、シャンパンではなくビールが表彰台でかけあわれたことなどです。 ラバットはカナダグランプリGPのメインスポンサーでしたが、ヴィルヌーヴのパーソナルスポンサーでもありました。彼のこの勝利は、イタリアやその他の国々にいる彼の批判者を黙らせる結果となっています。

故郷で才能開花

1978年の傑作