1976
1977

2回目のニキ

312 T2で2度目の世界タイトル

2回目のニキ
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308 GTS
1978
2回目のニキ
19772回目のニキ
00:00
各種の瞬間ガレージ
1947
1947初勝利
1948166 MMのデビュー
1949ル・マン勝利
1950
1950赤のミッレミリア
1950F1デビュー
1951F1初勝利
1952マルゾットのモナコ優勝
1952アスカリの勝利
1953スポーツカー選手権
1954最後のパンアメリカン
1954パリのクイーン
1955クーペのレディ
1956チャンピオンファンジオ
1957CALIFORNIA DREAMING
1957最後のミッレミリア
1958優美なチャンピオン
1959米国に挑む
1960
1960シリーズ開始
1961赤の独占
1962マスターピース
1963ル・マン、イタリア
19642つの世界のヒーロー
1965タルガで勝利
1966至宝の365 P
1967伝説のゴール
1968勝利への賛辞
1968アルゼンチンタンゴ
1969タスマニアのディーノ
1969ヨーロッパのマスターズ
1969新しいパートナー
1970
1970512 Sの奇跡
1971365 GT4 BB
1972312 P全勝
1972ホームサーキット
1973DINO 308 GT4が到着
197450回目の熱狂
1975チャンピオンのラウダ
1975初回
1976見事なオートマチック
19772回目のニキ
1978故郷で才能開花
1979シェクター世界一
1980
19808気筒エンジンを搭載した4シーター
1981モナコでターボが優勝
1982無敵の308 GTB
1983オープエアの楽しみ
1984フェラーリ初
1984スタイルの傑作
1985328、最後の舞台
1986米国の脅威
1987エンツォの夢
1988別れの日
1989マンセルのギア
1990
1990F1GP 100 勝
1991アイコンの進化
1992クラシックGT
1993クライアント専用
1994究極の洗練
1995F1ロードカー
1996シューマッハ初
1997革命的なギアボックス
1998スピード・フォルム
1999頂点に復帰
2000
200021年後
20012回目の世界タイトル
2002創業者への敬意
2003追悼アニエッリ
2004制止不能
2005SUPERAMERICAの魔術
2006エクスクルーシブXXプログラム
2007キミ、逆転王者
2008再びチャンピオン
2009ベンチマーク・カー
2010
2010赤のファン
2011全天候型FF
2012性能とデザイン
2013究極の革新
2014究極
2015未来に向かって
201670周年の象徴
2016株式市場の上場
2017祝!70周年
2018セルジオとの別れ
2019異なるオーナーには異なるフェラーリを
2020
2020優れた回復力を発揮するブランド
2021大きな変化の年
1977ニキからジョディーへ

2回目のニキ

312 T2で2度目の世界タイトル

1976年のシーズンは、最終戦の日本グランプリでニキ・ラウダが豪雨により2周目でリタイアを決断したため、フェラーリにとっては後味の悪いシーズンとなりました。結果的にはマクラーレンのジェームス・ハントがその年のタイトルを獲得しています。ニキ・ラウダはニュルブルクリンクでの悲惨な事故から驚異的な早さで復帰を果たしたものの、タイトル獲得には至りませんでした。

2回目のニキ

1977年、ラウダは闘志を燃やしてシーズンを迎えたものの、アルゼンチンにおける開幕戦では、新参チームのウルフに所属する南アフリカ出身のドライバー、ジョディ・シェクターが優勝を獲得しています。続くブラジル戦では、跳ね馬のもう一人のドライバーでアルゼンチン出身のカルロス・ロイテマンが勝利を決めました。ラウダがシーズン初勝利を挙げたのは、トム・プライスが死亡するという痛ましい事故の発生した南アフリカグランプリです。この悲劇的な事故は、レンツォ・ゾルジのドライブするシャドウのマシンから炎が上がった時に、それを消そうとしたマーシャルが不用意にも突如コースを横切ってしまったことによるものです。トム・プライスは、そのマーシャルをはねてしまった際、マーシャルの持っていた重たい消火器があたって即死してしまったのです。不幸なことにこの事故が発生した直後、絶命したドライバーを乗せたマシンはそのままホームストレートを暴走すると、第一コーナーに向けて減速していたリジェのマシンに衝突しました。リジェのマシンをドライブしていたのはラフィットです。幸いにもラフィットは、この衝突を無傷で切り抜けることができました。そしてラウダもこの恐ろしい事故の影響を受けた1人です。プライスのマシンの破片でラジエーターが壊れ、水温の上昇によってエンジンが十分に機能しなくなった状態のまま、惰性でフィニッシュラインを越えなければならなかったのです。ロングビーチではロータスのマリオ・アンドレッティが勝利を収めましたが、ラウダもこのレース以降の4戦で2位を3度獲得したため、ポイントを順調に蓄積することができました。フランス戦を5位という控え目な結果で終えたものの、彼は選手権を支配し、その後もトップを守り切ります。改良を重ねた312 T2がほぼ完璧なマシンに仕上がったうえ、強い決意を持ったラウダもミスを犯すことがありませんでした。実際、カーナンバー11番のマシンは、1年前のニュルブルクリンクで起きた忌まわしい事故の思い出を払拭するかのようにドイツのホッケンハイムで優勝を飾ると、オランダ戦でも勝利を挙げました。そしてイギリス戦、オーストリア戦、イタリア戦ではいずれも2位を獲得しています。ラウダがモンツァで表彰台に上がったお陰で、コンストラクターズ選手権のトロフィーは、シーズン3戦を残したままフェラーリに贈られることが決まりました。このレースはイタリアの観客を大いに沸かせました。ロータスに乗ってはいても以前はフェラーリのドライバーだったマリオ・アンドレッティがトップを走っていたからです。その人気は、あと1ポイントを取ればドライバーズタイトルに手が届くラウダを凌ぐほどでした。

10月2日のワトキンス・グレンで開催されたレースは、激しい雨によりサーキットが危険な状態での難しいスタートとなりました。ラウダは慎重なレース運びを見せましたが、最終的にはそれが功を奏しました。レースを制したのは前年の世界チャンピオンであるマクラーレンのハントでしたが、ラウダが獲得した4位という順位は、そのイギリス人ドライバーを王座から引きずり下ろし、ドライバーズタイトルをオーストリアに戻すには十分な成績でした。しかし、ひとたびタイトル争いに決着がつくと、ラウダとエンツォ・フェラーリの考え方には大きなズレが生じるようになりました。勝利を獲得できたのは自分の力量によるところが大きいと感じたラウダは大幅な昇給を要求しましたが、フェラーリはそれを容認しませんでした。そしてレース開催の週末には確執が悪化し、最終的に2人の男は別々の道を歩むことになったのです。ラウダはカナダ入りしたものの、マシンにはモスポート・パークで勝利を収めるだけのポテンシャルが備わっていないと発言し、現地での予選にすら参加しようとしませんでした。その後、彼は荷物をまとめてオーストリアに戻り、真っ向からフェラーリに反抗して論争を引き起こしました。彼は、1977年のシーズンにおける自分の実力を訴えたのです。ラウダは、「2年後に私とフェラーリの立場がどうなっているか、いずれは分かることだ」と言い放ちました。それに反応したエンツォ・フェラーリは、ラウダの代役として1回だけグランプリに参戦した経歴を持つ無名のカナダ人をドライバーに起用しました。それがジル・ヴィルヌーヴです。

2回目のニキ

2年後、マラネッロのスクーデリアは、シェクターのドライバーズタイトル獲得のみならず、独特な走行スタイルで跳ね馬のティフォシを興奮させるヴィルヌーヴのシーズン2位獲得を祝うこととなりました。一方、ブラバムに移籍したラウダはマシンの性能が低いことに失望し、一度目の引退を表明することとなります。エンツォ・フェラーリがその個人的な賭けにも勝利したのです。

1977年の傑作