1957
1957

最後のミッレミリア

315 Sでタルッフィが優勝

最後のミッレミリア
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Dino 156 F2
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250 GT Cabriolet
250 Testa Rossa
1958
最後のミッレミリア
1957最後のミッレミリア
00:00
各種の瞬間ガレージ
1947
1947初勝利
1948166 MMのデビュー
1949ル・マン勝利
1950
1950赤のミッレミリア
1950F1デビュー
1951F1初勝利
1952マルゾットのモナコ優勝
1952アスカリの勝利
1953スポーツカー選手権
1954最後のパンアメリカン
1954パリのクイーン
1955クーペのレディ
1956チャンピオンファンジオ
1957CALIFORNIA DREAMING
1957最後のミッレミリア
1958優美なチャンピオン
1959米国に挑む
1960
1960シリーズ開始
1961赤の独占
1962マスターピース
1963ル・マン、イタリア
19642つの世界のヒーロー
1965タルガで勝利
1966至宝の365 P
1967伝説のゴール
1968勝利への賛辞
1968アルゼンチンタンゴ
1969タスマニアのディーノ
1969ヨーロッパのマスターズ
1969新しいパートナー
1970
1970512 Sの奇跡
1971365 GT4 BB
1972312 P全勝
1972ホームサーキット
1973DINO 308 GT4が到着
197450回目の熱狂
1975チャンピオンのラウダ
1975初回
1976見事なオートマチック
19772回目のニキ
1978故郷で才能開花
1979シェクター世界一
1980
19808気筒エンジンを搭載した4シーター
1981モナコでターボが優勝
1982無敵の308 GTB
1983オープエアの楽しみ
1984フェラーリ初
1984スタイルの傑作
1985328、最後の舞台
1986米国の脅威
1987エンツォの夢
1988別れの日
1989マンセルのギア
1990
1990F1GP 100 勝
1991アイコンの進化
1992クラシックGT
1993クライアント専用
1994究極の洗練
1995F1ロードカー
1996シューマッハ初
1997革命的なギアボックス
1998スピード・フォルム
1999頂点に復帰
2000
200021年後
20012回目の世界タイトル
2002創業者への敬意
2003追悼アニエッリ
2004制止不能
2005SUPERAMERICAの魔術
2006エクスクルーシブXXプログラム
2007キミ、逆転王者
2008再びチャンピオン
2009ベンチマーク・カー
2010
2010赤のファン
2011全天候型FF
2012性能とデザイン
2013究極の革新
2014究極
2015未来に向かって
201670周年の象徴
2016株式市場の上場
2017祝!70周年
2018セルジオとの別れ
2019異なるオーナーには異なるフェラーリを
2020
2020優れた回復力を発揮するブランド
2021大きな変化の年
1957初めての世界タイトル

最後のミッレミリア

315 Sでタルッフィが優勝

1957年は、その髪の色から「シルバーフォックス」の異名をとったピエロ・タルッフィがレースの世界を後にした年であると同時に、エンツォ・フェラーリにとって苦難の1年となりました。 シーズンの初め、フェラーリはF1レースとスポーツカー世界選手権に向けて、エウジェニオ・カステロッテイ、ルイジ・ムッソ、ピーター・コリンズ、マイク・ホーソーン、アルフォンソ・デ・ポルターゴ、ヴォルフガング・フォン・トリップス、そのほか優秀なドライバーの才能を結集しました。そしてミッレ・ミリアに参戦するタルッフィに対し、スクーデリア・フェラーリは315 Sを用意します。

最後のミッレミリア

1月のF1アルゼンチンGPは、優勢だったフェラーリが最終的に5位でフィニッシュするという、大きな失望感を覚えるスタートでした。しかし、その翌週に行われたブエノスアイレス1,000kmで、マステン・グレゴリー、カステロッティ、ムッソが駆る290 MMが優勝を納め、スポーツカー世界選手権の連覇に向けて好スタートが切れたことから、その失望感は軽減されました。そうした中で迎えた3月14日、カステロッティがテスト走行中に事故死するという悲劇が起きてしまいます。エウジェニオは、1956年のミッレ・ミリアで優勝を収めたドライバーです。1948年以降、フェラーリはミッレ・ミリアで6連覇を果たしたものの、その後2年間は他のチームによって優勝を阻止したため、1956年における勝利は2年ぶりのことでした。 1957年のミッレ・ミリアは、その悲劇が起きた後に行われた、最初のレースです。ピエロ・タルッフィはこの時点で51歳、このイタリアのクラシックレースに13回も参戦しながら一度も優勝経験がなかった彼は、このレースで勝利を納めることができたらレースから引退するということを、レース前日に妻のイザベラに約束していました。 この約束に気付いたエンツォ・フェラーリは心を動かされます。彼はタルッフィが自身のマシンでレースデビューを飾ったことを鮮明に思い出すと、それもきっかけとなって、タルッフィの計画をサポートしようと決めたのです。

5月12日、日曜日の午後、ボローニャにおける給油時点で2位につけていたタルッフィは、体力面で疲弊していました。フェラーリは、そんな彼を励ましました。タルッフィの前を走るチームメイトのコリンズはマシントラブルを抱えており、後ろを走るもう一人のチームメイト、フォン・トリップスにはタルッフィの前に出ないよう、伝えようと考えていたのです。モデナに戻ると、彼はマントヴァやブレシアへと向かう残りの区間において先頭を走ります。 コリンズはリタイアを余儀なくされ、フォン・トリップスもフィニッシュ・ラインまでタルッフィをパスすることはありませんでした。レース後、フォン・トリップスはマスコミに対し、直線でタルッフィにアタックしようとしたが上手くいかなかったと話しています。ドイツ人のフォン・トリップスは当時わずか29歳でしたが、ベテランドライバーに対してはつねに敬意を払うというチームの指示に対して従順な姿勢を示していました。 タルッフィは妻を喜ばせ、約束通り引退を表明します。彼はエンジニアリング活動を続けながら、2輪と4輪のレーサーとして勝利を重ねつつ数々の記録を残してきましたが、彼の長年にわたるキャリアはこうして幕を下ろしたのです。 しかし、ミッレ・ミリアも1957年が最後のレースとなってしまいました。レース終盤におけるマントヴァ付近でのこと、デ・ポルターゴがドライブしていたFerrari 335 Sは、タイヤが破裂してしまいます。これによってマシンが道路から飛び出すという事故が発生し、ドライバーのポルターゴとナビゲーターのエドモンド・ネルソンが死亡してしまったのです。この事故では、4名の子供を含む9名の観衆も犠牲になってしまいました。エンツォ・フェラーリを襲ったこの新たな悲劇により、ミッレ・ミリアはこれが最後のレースとなったのです。ひとつのレースが、その時代とともに終焉を迎えてしまいました。

最後のミッレミリア

1957 Masterpieces