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レース

不遇のヒーロー:ヴォルフガング・フォン・トリップス

シリーズ第二弾は、ミドシップ化されたフェラーリのスポーツカーとシングルシーター。その両方に初勝利をもたらしたドライバーを追悼してお届けします。
文 – ギャビン・グリーン
偉大なシューマッハがスクーデリアの世界タイトルを獲得する40年前、ヴォルフガング・フォントリップ伯爵はフェラーリにおける最初のドイツ人世界チャンピオンに王手をかけていた。
1961年、ラインランド家の御曹司であるフォン・トリップスは、F1世界選手権チャンピオンシップをリードしてモンツァで開催されたイタリアGPに臨んだ。シリーズ残り2戦となったこのレースでフォン・トリップスはポールポジションを獲得。一方のヒルは4番グリッド。流れはフォン・トリップスにあった……。
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Wolfgang von Trips at 1961 Monaco Gp

ヴォルフガング・フォン・トリップスは、1961年F1世界選手権チャンピオンシップのオープン戦であるモナコGPで4位に終わりました。彼はエントリーしたフェラーリ4台の中で3番目でした。しかし、スクーデリアの初勝利をもぎとり、タイトル・レースをシーズン残り2戦まで引っぱります。

この年、カリスマ的なドイツ人は好調だった。5月に開催されたオランダGP、海岸沿いの砂塵が舞うザンドフールト・サーキットで1950年に始まったF1世界選手権史上めてのドイツ人優勝者となった。しかも、ポール to フィニッシュという文句なしの勝利だった。これはフェラーリにとっても、ミッドシップF1マシンでの初優勝であった。

(記録としては、新型156 F1の最初の勝利は、このオランダGPの 1カ月前に開催されたシラキュースGP(シチリア)だが、こちらはノンタイトル戦。ドライバーはやはり不遇のドライバーと言えるジャンカルロ・バゲッティ)

オランダGPから 2カ月後、33歳の伯爵は絶好調だった。エイントリー・サーキットで開催された雨のイギリスGPで優勝。フェラーリの優勝はもはや驚きではなかった:新型156「シャークノーズ」は、1961年F1シーズンを支配するマシンだった。ウェットコンディションでの勝利、しかも地元イギリスのヒーローであるチャンピオンドライバー、スターリング・モスとジム・クラークを打ち破っての堂々の勝利。これはフォン・トリップスの特別な才能の証となった。
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Wolfgang von Trips at 1961 British GP

1961年シーズン中、英国GPでの勝利によりフェラーリは4連勝を達成しました。フォン・トリップスは、その年表彰台の頂点に2度立つ初のトップ・ドライバーとなりました。

フォン・トリップスの活躍はF1に限ったことではない。 1961年4月の最終日、彼のフェラーリはシチリア島で開催された当時もっともチャレンジングかつ危険なスポーツカーレースと称されていたタルガ・フローリオも制している。 この時彼がドライブしたのはフェラーリ246SP。マラネッロが初めて製造したミッドシップにエンジンを搭載したスポーツカーで、新型F1カーと並行して開発されたものだった。

フォン・トリップスの記録は、フェラーリのミッドシップ・スポーツカーとミッドシップF1カーに留まらず、「ミドシップ・フェラーリ」そのものの初優勝も打ち立てている。1960年7月24日、61年シーズンの開発作業の一環として、フェラーリはソリチュードGPにプロトタイプのミッドシップエンジンF2カーで参戦。ジム・クラークやグラハム・ヒルといった錚々たるメンバーが乗るF2カーがグリッドを占めるライバルを相手に、フォン・トリップスはラップレコードを記録して勝利を収めた。
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Wolfgang von Trips (left) and Richie Ginther at the 1961 24 Hours of Le Mans

1961年撮影。ル・マン24時間にて、チームメイトのリッチー・ギンサーとカメラに微笑むヴォルフガング・フォン・トリップス。ペアはFerrari 246 SPをドライブし、何度もリードし、燃料の誤算から17時間目にコース上に残され2位からリタイアしました。

1961年のフォン・トリップスはまさに飛ぶ鳥を落とす勢いだった。 それまで彼がフェラーリと過ごした5年間は、決して華々しいものではなかった。初参戦は1956年のイタリアGP。この時、モンツァのグランデ・コーナー出口で不吉の予兆のようなクラッシュを演じた。スピンするマシンから投げ出された彼は、むせるような濡れた地面の匂いを記憶していると語っている。まさに生還の証だった。1年後、“タフィー”の愛称で人気を集めるようになっていた彼は、同じモンツァで3位入賞を果たす。これは1961年で終わる彼のフェラーリでのベストリザルトとなった。

1961年イタリアGP。世界チャンピオン・タイトル獲得に大きな期待が寄せられていたフォン・トリップスは、2周目にジムクラークのロータスと激しいバトルを演じていた。2台は時速150マイル(約241km/h)の高速で接触。 スピンを喫し、コースアウトしたクラークは幸い無傷で済んだ。しかし、フォン・トリップスは不運だった。彼のマシンは横転したまま土手を駆け上がり、観客が詰めかけていた薄っぺらい金網フェンスに激突した。彼は重傷を負い、病院に到着する前に亡くなった。フェンスに押しつぶされた観客15名が犠牲になった。

タイトルは、アクシデントの後も走り続けたフィル・ヒルが獲得した。しかし彼もフェラーリ・チームも、とてもお祝いムードではなかった。残された次戦(最終戦)アメリカGPへの参戦は見送られた。
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Wolfgang von Trips (right) and Phil Hill at 1961 Dutch GP

1961年F1シーズン第2戦オランダGPでワンツーフィニッシュを祝うヴォルフガング・フォン・トリップス(右)とチームメイト、フィル・ヒル。両者はF1世界選手権のシーズン残り2戦まで競い合います。フォン・トリップスの早すぎる死により、フィルがタイトルを獲得しました。

シューマッハと同じように、フォン・トリップスはフェラーリと共に数々の栄光を手に入れた。このふたりのドライバーの間には、偉大なドイツ人ドライバーという以外にも共通点がある。お互いの出身地が、わずか数キロしか離れていないということ。フォン・トリップスは1961年に生家からほど近いケルン市西方にカートコースを開設した。後年、幼いミハエル・シューマッハが父親に連れられ、人生で初めてレーシングカートに乗ったのが、このカートコース場だった。