412 P:漂流の60年代を象徴するモデル
文:ジェンソン・バーロウ
1967年の412P:フェラーリの歴史に名を刻んだ特別な一台
フィオラーノで行われたフェラーリ70周年記念イベントにて、珠玉の歴代フェラーリ・モデルが一堂に会しました。フェラリスティの方々には、Cavallino Rampante(跳ね馬)のブランドにとって重要な年を飾るこのイベントでは当然のことと思われていたでしょう。
しかし、このような状況でも一際注目を浴びる車輌がありました。サーキットの少し上り坂のターン6に並ぶイエローの412 Pが放つ魅力に吸い寄せられるように人々が集まっていたのです。その最たるものが ーフェラーリ・クラッシケのジジ・バルプ氏 がエンジンを始動させた時、周囲の人々を全員を振り返らせるー 412 Pの想像を絶する咆哮です。フェラーリはこれまでに一度も美しくないサウンドを奏でる車輌を創造したことはありません。これは、美醜を超越した特別なサウンドでした。
色もまた重要です。なぜなら、あのイエローはベルギーのナショナル・カラーであると同時に、有名なエキュリー・フランコルシャンのカラーだからです。エキュリー・フランコルシャンは、エンツォ・フェラーリの最も有名な友人のひとりで、ディーラーでありブランドの信奉者でもあったジャック・スワタース(彼は 同時にエキュリー・ナショナル・ベルジャ・チームにも関わっており、どちらでも功績を残しています)によって運営されたチームでした。
美しく、戦闘力の高い330 P3/4 耐久レース用モデルのカスタマーバージョンである412 Pは、シャシーのモディファイに加えて、4.0リットル、414馬力のV12に当時最新のルーカス製燃料噴射ではなく、ウェーバー製6連キャブレター(2基)を備えているのが特徴です。
戦略的には、速さよりもドライバビリティを重視して、ファクトリー・チームのバックアップ・カーとして選手権ポイントを積み上げることを目的としていましたが、こうしたことはすべて状況によって変化したのも事実です。
シャシーナンバー0850は、ウィリー・メレスと「ビュアレス」(本名はジョン・ブラトンですが、レースではビュアレスを名乗りました)両ドライバーがステアリングを握り、1967年のデイトナ24時間でレース・デビューしました。このレースは、3台のフェラーリが横一線に並び、1-2-3を決めたことで歴史に名を刻みましたが、同車輌はギアボックス・トラブルでリタイアに終わり、残念ながら4位入賞を果たすことは出来ませんでした。
その後、同年リナ・モンレリ・サーキット(Autodrome de Linas-Montlhéry)で開催されたパリ1000kmレースに出場した#0850は、総合2位を果たしました。また翌1968年には4レースに出場しました。
このような重要なフェラーリ・レーシングモデルの中で、その後に起こった出来事によって、シャシーナンバー 0850をユニークな存在として際立たせました。
ディーン・マーティンJr. ー伝説のエンターテイナーRat Pack(シナトラ軍団)のひとり、ディーン・マーティンの8人の子供の第5子ー が、18歳の時にこの車輌を購入し、一般道で走らせることを目的に、スパイダーにモディファイしたのです。
西ハリウッドの住人達に、このアグレッシブな車輌がサンセット大通りを走り回る光景が話題となりました。富裕層や有名人の子息が親と肩を並べるほど有名になることは、至難の業です。しかし、彼の場合はこの車輌にかなり助けられたようです。
(事実、ディーン・マーティンJr.は多才でした。歌手、テニス選手、俳優そしてパイロットとして活躍をし、1987年、彼が操縦する空軍州兵所属のF-4 ファントムII 戦闘機がカリフォルニアの山脈に墜落して、命を落としました。35歳の時でした)
1970年代半ば、マーティンJr.はこの車輌を手放し、次のオーナーとなったポール・パッパラールド氏は定期的にこのユニークなフェラーリを公開しました。フェラーリ・ドライバー・アカデミー出身で、現在F1ドライバーとして活躍しているランス・ストロールの父親でフェラーリ・コレクターとして世界的に有名な
ローレンス・ストロール氏が3番目のオーナーとなりました(レッドの330 P3/4、250 Testa Rossaといった彼のフェラーリ・コレクションを充実させる貴重な一台としてガレージにディスプレイされていたようです)
2017年、フェラーリ・クラッシケでフォルムと機能を忠実にオリジナル仕様に戻された後、現在は米国の起業家、ハリー・イエギー氏がコレクションに収められています。彼はペブルビーチ・コンクールデレガンスでこの車輌を披露し、フィオラーノでの70周年コンクールに参加しました。12気筒エンジンは休むことなく、現在も元気よく回り続けています。