アンドレア・デ・アダミッチのDino 166 F2がテンポラーダ・アルゼンチンを制する
南米テンポラーダは、F1世界選手権のシーズンに続けて開催されたレースであり、 南半球の夏にあたる12月に4回のトライアルが行われました。賞金額が申し分ないうえに、車体、エンジン、スペアパーツを販売する機会も与えられました。シーズンが終わると、翌年に向けて新しいマシンを製造するための資金が必要になるため、魅力的なレースだったのです。
1968年、このテンポラーダはF2マシンを対象に、4回のトライアルを行いました。スクーデリア・フェラーリは、エルネスト・「ティーノ」・ブランビラとアンドレア・デ・アダミッチをドライバーに起用し、2台のDino 166で参戦しました。エントリー選手の中にはF1経験者を含む一流ドライバー25人が名を連ねました。ヨッヘン・リントクレイ・レガツォーニ、ジャン=ピエール・ベルトワーズ、ジョー・シフェール、シルビオ・モーザー、ペドロ・ロドリゲスらが、テクノ、マトラ、ブラバム、ロータスのステアリングを握ります。
Dino 166 F2は1967年に誕生し、同年はジョナサン・ウィリアムズのドライビングでルーアンの1レースにのみ参戦しています。排気量1,596 ccのV6エンジンを搭載し、最高出力は200 cvを誇りました。1968年にはヨーロッパ・グランプリを含む様々なレースに参戦し、2位という好成績を収めたほか、シーズン・フィナーレではブランビラのドライビングによって2勝を飾っています。ホッケンハイム、およびその後のヴァレルンガでこのマシンを勝利に導いたのは、「ティーノ」の愛称で親しまれたブランビラでした。
また、このマシンはエンツォの息子であるディーノがエンジン開発に携わっていたことから、エンツォに愛されていました。ブランビラは2つのレースで最速ラップをマークし、ローマではポール・ポジションを獲得します。デ・アダミッチはヴァレルンガで2位。そうした中、デレック・ベルはホッケンハイムで3位、さらにザントフォールトではトップに躍進したほか、ブランビラと並ぶ最速ラップをマークします。同シーズン中、ヨーロッパGP以外のレースでは、ジャッキー・イクス、クリス・エイモン、ブライアン・レッドマン、ジャンカルロ・バゲッティ、マリオ・カゾーニがこのマシンで参戦しています。
このような世界戦での好成績を受け、フェラーリは、南米でのテンポラーダに2人のイタリア人レーサーを送ることを決定します。チームメイトに抜きん出て、ブエノスアイレスでいきなり主役の座を獲得し、最速ラップもマークしたのはブランビラでした。しかし、その後のトライアルでは、コルドバとサン・フアンの2レースで勝利するとともに、コルドバではポール・ポジションも獲得したデ・アダミッチに勢いが移ります。ブランビラは2回のリタイアにより出遅れ、最終的にはデ・アダミッチとリントの優勝争いになります。
最終トライアルでは、モンツァ出身のブランビラがポール・ポジションと最速ラップを達成したものの、ブラバムのピアス・カレッジが勝利を収めました。それでも、デ・アダミッチは5位に入ればテンポラーダを制覇できる状態にありましたが、ブランビラは最終ランキングが4位でした。この結果を受け、フェラーリはコンストラクターズ・タイトルを獲得します。その後、タスマン・カップに向け、Dino 166 F2をベースにしたDino 246 Tasmaniaが製造されると、1969年にはエイモンがそのマシンで勝利をつかみました。