車輌
70年ぶりの再会
フランコ・コルナッキアは単なる自動車ディーラーではありませんでした。彼は市場で最高のスポーツカーを通して夢、理想、そして冒険を売り込みます。そして、それらの車はわずか数年で真の四輪の伝説となり、ミッレ・ミリアで観客を魅了し、サーキットを走るたびに注目を集めました。高性能車の発祥地であるモデナから来たスポーツカーのボンネットには跳ね馬が描かれていました。コルナッキアはフェラーリを最初に信頼した人物であり、エンツォ自身もその信頼に応えてコルナッキアにフェラーリ車の独占販売権を与え、フェラーリ初のディーラーを設立します。その店はミラノのフレグーリア通りにあり、グアスタッラ庭園からすぐ近く、州立大学、総合病院、裁判所に囲まれた場所にありました。これはけっして些細なことではなく、コルナッキアは彼のチームをスクーデリア・グアスタッラと名付けます。
彼自身の情熱と裕福なクライアントの情熱を表現するために創設されたこのチームは、フェラーリ車でレースを行う最初のプライベートチームの一つとなります。1954年はミラノに到着した2台のバルケッタと同様、サーキット、さらには長距離ロードレースに出場するのにちょうど良いタイミングでした。最初の車はシャシー0442Mとスカリエッティ・スパイダーボディの250 Monzaです。240cvを発生する3.0リッターV12エンジンが850kgのシャシーを駆動するこの車は、すぐにモンツァで開催されたスーパーコルテマッジョーレグランプリに出場します。典型的なジェントルマンドライバーでプロ転向寸前の非常に優秀なレーサーだったジェリーノ・ジェリーニ侯爵とともに、コルナッキア自身が運転して総合3位を獲得します。もう1台はディーノ・フェラーリの設計に基づいてスカリエッティがボディを製作したシャシー0470Mの750 Monzaです。同じ3.0リッターエンジンを搭載しながらも直列4気筒エンジンとなり、より軽量かつ俊敏で260cvのパワーをわずか760kgで実現しました。デビューはさらに冒険的なものでした。最初の旅は航空貨物でメキシコシティへ輸送され、その後すぐにカレラ・パナメリカーナでレースデビューを果たします。
250 Monza は22番を付け、1954年のカレラ・パナアメリカーナで総合5位につけ、14番の 750 Monza は最大時間制限を超えました
5回目にして最後のレースとなった1954年大会は、3,000kmのコースのすべてが舗装路で行われた初のレースでもありました。それ以前のレースは危険に満ちた荒れたダートサーキットで開催されており、その前年にはLancia D24でリードしていたフェリーチェ・ボネットが命を落としています。
アスファルトの路面でレースは容易になるはずでしたが、そうとも言えませんでした。ジョヴァンニ・ブラッコとリッカルド・リヴォッキが交代で運転しますが、フィニッシュで規定タイムを超過して失格になります。
同じくグアスタッラのカラーで出場し、チームオーナーのフランコ・コルナッキアがドライバー、アルゼンチン人のエンリコ・ペルキーニがコドライバーを務めた250 Monzaは異なる運命を辿ります。彼らは総合5位、1500cc超クラスで3位を獲得し、ウンベルト・マリオーリのFerrari 375 Plusが優勝。フィル・ヒルとリッチー・ギンザーが駆る別の375のMM Vignaleがそれに続きました。
70年を経て、2台のバルケッタはフェラーリ・クラシケに戻り、オリジナルの仕様を尊重した完全な修復が行われました
チェッカーフラッグが振られたその瞬間から2台のMonzaの運命は大きく分かれます。250 Monzaは中米に留まり、グアテマラのメルセデス・ベンツ販売代理店であるマンフレド・リップマンに販売されました。カレラでのパフォーマンスに感銘を受けた彼は、すぐにそれを青、白、金に塗り直します。750 Monzaは数ヶ月間イタリアに戻された後、スウェーデンのアマチュアドライバーに販売され、1957年に重大な事故が起こるまで頻繁にレースに出場します。その後スカリエッティの元の設計と完全には一致しないボディの再組み立てが行われます。それから70年間、両方の車は何度も大西洋を横断し、ヨーロッパとアメリカの間を旅します。結局750 Monza 0470Mは1998年に、250 Monza 0442Mは2007年に、ミラノではなくロンバルディア州に拠点を置く2人のコレクターのガレージに戻ります。
それ以来、ミッレ・ミリアやバッサーノのレ・ミティケ・スポールといったイベントにそれぞれが別々に姿を現しますが、その後も2台は接近しつつも一度も出合うことはありませんでした。その後、運命の不思議な巡り合わせで、2台のバルケッタはフェラーリ・クラシケのワークショップという同じ場所に偶然にたどり着きます。オーナーたちはこの驚くべき偶然を知らずに、それぞれの車を元の状態に戻すという同じ目的のために車をマラネッロに送っていたのでした。両方の車はワークショップで集中的なプログラムを受けて、オリジナルではないパーツの交換、全体のテクニカルオーバーホール、完全な美観の修復(750 Monzaのボディとインテリアの再加工を含む)に加え、すべての機械部品を点検し、正常な機能と効率を取り戻しました。フェラーリ・クラシケの認定取得という目標は見事に達成され、1954年のカレラ・パナメリカーナのように、再び新たな冒険をともに楽しむ機会も近いかもしれません。