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18 5月 2021Magazine, Races

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60年前、あるスポーツカーによって、フェラーリは新たな地平を開きました。

文 – ベン・プルマン

60年前、あるスポーツカーによって、フェラーリは新たな地平を開きました。

ミッドシップという革新的なエンジン・レイアウトを先駆けた246 SPです。これにより、跳ね馬のレーシング・マシンとオンロード・モデルは画然と変化することになります。

246 SPがタルガ・フローリオで2勝を獲得したうえに、ニュルブルクリンク1000kmをはじめとする著名なイベントでも勝利することができたのは、1950年代後半と1960年代前半、エンツォ・フェラーリが、才能あるエンジニア、デザイナー、ドライバーたちをスクーデリアに集めたことが大きな要因です。

これらの偉大な人々は、V12フロント・エンジン・スポーツカーの250 Testa Rossaによって歴史に名を残す成功を収め、1958年と1960年にスポーツカー世界選手権でフェラーリに勝利をもたらしました。しかし、F1の領域で変化が生じ、各チームがミッドシップ・エンジン・レイアウトに移行していったのです(ただし、当時はドライバーのどの程度後方にエンジンが配置されているのかについては区別がされていなかったため、「呼ばれていました)。




このときフェラーリは、F1とスポーツカーの両方を変革しようという、途方もない努力を要することを企てます。そして、ミッドシップ・エンジン・レイアウトのシングル・シーターを実験的に製作し、2.4リッターV6によって1960年のモナコGPで初のレースに挑むと、その後のフォーミュラ2ソリチュードGPでは、小型の1.5リッターV6を搭載して優勝を獲得。さらに、この年のイタリアGPでは5位(F2クラスでは1位)に入りました。

この開発をベースにして、フェラーリはミッドシップ・エンジン・レイアウトのF1マシンとスポーツ・モデルを新たに生み出します。このとき、この後者のシャーシについては、規則に準じた2シーター・レイアウトにすべく最小限の変更を施しただけのものにとどめたことから、完成した車両は真のスポーツ・プロトタイプと呼べるものでした。




初代246 SPは、オリジナル・バブルと細長いテールフィンをドライバーの背後に装備(マラネッロの中庭で撮影)。




新しい246 SPは、シングル・シーターの156 F1とともに、1961年2月13日にマラネッロで披露されました。F1マシンの方には(シーズン後半にワイド・アングルの革命的な120° V6が用意されるまで)小型の1.5リッター・エンジンが搭載され、246 SPには大型の2.4 V6エンジンが搭載されました。

そして、このシャーシとミッドシップ・エンジンには、カルロ・キティ率いるチームにより、空気力学に基づくアルミニウム製のボディが組み合わされました。航空エンジニアとしての教育を積んだカルロ・キティは、空気力学の黎明期において、小型の風洞をマラネッロに設置してもらっています。この結果、246 SPには独特な2つの鼻孔を持つ「シャークノーズ」(F1カーにも取り入れられた特徴)と、テール・エンドを上昇させたデザインが採用されることとなったのです。




1961年シーズンに246 SPと156 F1で採用されることとなった、2つの鼻孔を持つ「シャークノーズ」(縮尺モデルの風洞での実験による成果)




ミッドシップ・エンジン・レイアウト、パワフルなフェラーリ製エンジン、空気力学に基づいたボディというこの組み合わせは、すばらしい成果を収めることになります。しかし、良いことだけではありませんでした……。

このマシンは1961年3月にモンツァでテストされましたが、コーナリング速度がF1カーよりも遅く、ストレートでもその遅れを取り戻せないことが判明したのです。そこで、フェラーリ・チームの卓越したテスト・ドライバーであると同時に有能な航空機エンジニアでもあったリッチー・ギンサーと協力し、カルロ・キティは実験を重ねます。




「ディノ」の名前で知られる、バンク角65°のDOHCエンジンは、数年間にわたり多種多様な排気量のものが製造されましたが、初登場は1956年のことで、フロント・エンジン・レイアウトのフェラーリ・モデルに採用されました。246 SPの場合、排気量は2417cc。リヤに配置されたトランスミッションとドライブトレインのためにV6のブロックが練り直されました。




その結果、この2人は、マシンの全幅にまたがるスポイラーを設けるという判断を下しました。そして、高さと角度を入念に調整するとともに、テールにおける最適な設置ポジションを見つけたことで、揚力と空気抵抗を双方とも減少させることに成功したのです。ストレートでは若干速度を落とすことになりましたが、コーナーでの高速安定性が向上するといった、それを補って余りある結果が得られました。

空気力学的な考え方がまだ新しかった当時としては革命的な考えでしたが、フェラーリは、高温のエキゾーストに補給中のガソリンが跳ねかからないようにする必要があるとレポーターや関係するライバル・チームに語っていました。




モンツァでの試験中、246 SPはリヤ・ボディが取り払われていました。コーナーでは、テールフィンを設けた初期のデザインのものよりも速かったことから、革新的なリヤ・スポイラーを生み出すきっかけとなりました。




1961年のスポーツカー世界選手権の初戦に向け、同月中に米国セブリングへ渡ったリッチー・ギンサーとそのチーム・メイトであるヴォルフガング・フォン・トリップスは、プラクティスの初日に新しいラップ・レコードをマークしましたが、その後はステアリングの不具合によってレースでのリードを手放すことになってしまいます。

この前途有望なスタートののち、2台の246 SPはタルガ・フローリオに姿を見せると、フォン・トリップスとオリビエ・ジャンドビアンによってドライブされました。

そして、ミッドシップ・エンジン・レイアウトのフェラーリ・モデルがメジャーなレースで初勝利を挙げるという快挙をもたらしたのです。 1962年シーズンになると、246 SPは、さまざまなレーシング・マシン(2.0リッターのカテゴリーに属する196や、2種類のV8仕様など)に発展し、多くの選手権とクラスに参戦しました。2月にマラネッロで披露されたこれらのマシンは、あの250 GTOのデビューをも影の薄いものにしてしまったほどです……。




1962年の初のデイトナ3時間において2位でフィニッシュしたリカルド・ロドリゲスと現F1チャンピオンのフィル・ヒル。デイトナが24時間の耐久レースとなったのは1966年のこと。




この年、246 SPはタルガ・フローリオで再度優勝を果たしたほか、ニュルブルクリンク1000kmでも勝利を獲得。また、196 SPも1962年のヨーロッパ・ヒルクライム選手権を制しています。

マラネッロでの進化はとどまるところを知らず、1963年3月4日にはミッドシップ・エンジン・レイアウトを採用したフェラーリ初の12気筒モデルが発表されました。この250 Pが誕生したことで、246 SPは表舞台から退くことになりましたが、この先駆的な先行モデルの存在がなければ、新しいレーシング・モデルは生まれえなかったでしょう。この新しいマシンは、セブリング、ル・マン、ニュルブルクリンクで勝利を挙げると、ついには1963年のスポーツカー世界選手権でプロトタイプ・タイトルを獲得しました。

さて、その次に何が待ち受けていたと思いますか……?




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