各種の瞬間ガレージ
1947
1950
1960
1970
1980
1990
2000
2010
2020
2025
1950
1951

F1初勝利

ゴンザレスがシルバーストンで優勝

F1初勝利
ポッドキャストを再生
625 F1
212 Export
212 F1
500 F2
1952
F1初勝利
1951F1初勝利
1951初めての世界タイトル

F1

ゴンザレスがシルバーストンで優勝
「1951年、ゴンザレスのドライブするフェラーリがアルファロメオ159を破り、アルファチームとの直接対決を初めて制した時、私は嬉しさのあまり涙が出ました。しかし、それは喜びと苦しみの感情が混ざり合った涙でした。その涙を流しながら、私の中にはある思いがよぎりました。私は自分の母を殺してしまった」と。これはエンツォ・フェラーリが自身の著書 Ferrari80 の中で記した言葉です。
コメンダトーレの称号を得ているエンツォ・フェラーリが「自分の母」という言葉で意味したのは、もちろんアルファロメオのことです。彼はアルファロメオでテストドライバーやワークスドライバーを務めただけでなく、レース部門の責任者として、世界のサーキットで大きな成功を収めた各種マシンの開発にも携わっていました。 それまで抜き去ることのできなかったファンジオとファリーナのアルファロメオをゴンザレスが撃ち破り、待望の勝利を手にしたことで、エンツォ・フェラーリの過去の記憶は再び呼び起こされました。 それは1951年7月14日の土曜日のこと、場所はイギリスのシルバーストーンです。アルゼンチン出身のドライバー、ホセ・フロイラン・ゴンザレスは、同国出身のファン・マヌエル・ファンジオに対するリードを維持すると、最終的には彼に50 秒の差をつけてフィニッシュラインを通過しました。これをきっかけに、フェラーリはF1レースにおいて連勝を飾っています。 シルバーストーンは、同国出身のドライバーが、同じ国のメーカーのマシンでバトルを繰り広げるダブル対決の舞台となりました。つまり、走行距離400 kmを超えるレースにおいて、アルゼンチン出身の2名のドライバーが、イタリアの自動車メーカーのマシンでトップを争ったのです。最終的にはゴンザレスが90周を2時間42分18秒のタイムで走り抜き、初勝利を獲得しました。当時のマシンは簡素な構造で運転も容易ではなかったため、これだけの距離を走るのはきわめて過酷なことでした。
そしてレースは抜きつ抜かれつの展開を繰り返す、ポジション変化の激しいものでもありました。ゴンザレスの勝利は、マシントラブルが原因でリタイアを余儀なくされたアスカリの紳士的な振る舞いによるものでもあります。トップを走っていたアスカリは、当時のルール上、ゴンザレスのマシンに乗り換えることができましたが、彼はそのチャンスを拒否したのです。
実際、各マシンがレース途中で給油のためにピットインした際、ゴンザレスはアスカリにドライバーの交代を申し出ましたが、アスカリはゴンザレスがそのまま運転を続けるべきであると告げています。 この時Ferrari 375にはアドバンテージがありました。Alfa 159よりも燃費に優れていたので、ピットストップにおける給油時間を短縮することができたのです。 再びサーキットに戻ったゴンザレスは、ファンジオに対するリードを大きく広げ、かつてのロイヤル・エアフォース・ステーション・サーキットにおける自身の初勝利を確実なものにしました。このレースに一緒に参戦したジジ・ヴィロレージのフェラーリは、3位でフィニッシュしています。
フロイラン・ゴンザレスは、コーナーを走るたびにコックピットから自身の大きな頭が出ることから、「El Cabezon(エル・カベゾン)」の愛称で呼ばれていました。また、アグレッシブなドライビングスタイルを披露することから、「パンパスブル」としても知られていました。ゴンザレスはコックピットでステアリングを前にした際の姿も個性的で、 肘を両サイドにつきだしながらステアリングホイールの最上部を握り、コーナーでは体で車を旋回させようとしているかのように胴体部を左右に傾けていました。 彼は何事も決してあきらめませんでした。エンツォ・フェラーリは彼のそうした点が気に入っていたのです。

1951 Masterpieces

625 F1
212 Export
212 F1
500 F2
00:00
1951初めての世界タイトル

F1初勝利

ゴンザレスがシルバーストンで優勝

「1951年、ゴンザレスのドライブするフェラーリがアルファロメオ159を破り、アルファチームとの直接対決を初めて制した時、私は嬉しさのあまり涙が出ました。しかし、それは喜びと苦しみの感情が混ざり合った涙でした。その涙を流しながら、私の中にはある思いがよぎりました。私は自分の母を殺してしまった」と。これはエンツォ・フェラーリが自身の著書 Ferrari80 の中で記した言葉です。

F1初勝利

コメンダトーレの称号を得ているエンツォ・フェラーリが「自分の母」という言葉で意味したのは、もちろんアルファロメオのことです。彼はアルファロメオでテストドライバーやワークスドライバーを務めただけでなく、レース部門の責任者として、世界のサーキットで大きな成功を収めた各種マシンの開発にも携わっていました。 それまで抜き去ることのできなかったファンジオとファリーナのアルファロメオをゴンザレスが撃ち破り、待望の勝利を手にしたことで、エンツォ・フェラーリの過去の記憶は再び呼び起こされました。 それは1951年7月14日の土曜日のこと、場所はイギリスのシルバーストーンです。アルゼンチン出身のドライバー、ホセ・フロイラン・ゴンザレスは、同国出身のファン・マヌエル・ファンジオに対するリードを維持すると、最終的には彼に50 秒の差をつけてフィニッシュラインを通過しました。これをきっかけに、フェラーリはF1レースにおいて連勝を飾っています。 シルバーストーンは、同国出身のドライバーが、同じ国のメーカーのマシンでバトルを繰り広げるダブル対決の舞台となりました。つまり、走行距離400 kmを超えるレースにおいて、アルゼンチン出身の2名のドライバーが、イタリアの自動車メーカーのマシンでトップを争ったのです。最終的にはゴンザレスが90周を2時間42分18秒のタイムで走り抜き、初勝利を獲得しました。当時のマシンは簡素な構造で運転も容易ではなかったため、これだけの距離を走るのはきわめて過酷なことでした。

そしてレースは抜きつ抜かれつの展開を繰り返す、ポジション変化の激しいものでもありました。ゴンザレスの勝利は、マシントラブルが原因でリタイアを余儀なくされたアスカリの紳士的な振る舞いによるものでもあります。トップを走っていたアスカリは、当時のルール上、ゴンザレスのマシンに乗り換えることができましたが、彼はそのチャンスを拒否したのです。

実際、各マシンがレース途中で給油のためにピットインした際、ゴンザレスはアスカリにドライバーの交代を申し出ましたが、アスカリはゴンザレスがそのまま運転を続けるべきであると告げています。 この時Ferrari 375にはアドバンテージがありました。Alfa 159よりも燃費に優れていたので、ピットストップにおける給油時間を短縮することができたのです。 再びサーキットに戻ったゴンザレスは、ファンジオに対するリードを大きく広げ、かつてのロイヤル・エアフォース・ステーション・サーキットにおける自身の初勝利を確実なものにしました。このレースに一緒に参戦したジジ・ヴィロレージのフェラーリは、3位でフィニッシュしています。

F1初勝利

フロイラン・ゴンザレスは、コーナーを走るたびにコックピットから自身の大きな頭が出ることから、「El Cabezon(エル・カベゾン)」の愛称で呼ばれていました。また、アグレッシブなドライビングスタイルを披露することから、「パンパスブル」としても知られていました。ゴンザレスはコックピットでステアリングを前にした際の姿も個性的で、 肘を両サイドにつきだしながらステアリングホイールの最上部を握り、コーナーでは体で車を旋回させようとしているかのように胴体部を左右に傾けていました。 彼は何事も決してあきらめませんでした。エンツォ・フェラーリは彼のそうした点が気に入っていたのです。

1951 Masterpieces